短編集13(過去作品)
表を歩いている人、店内で楽しく話をしている人、すべてが私にとっての被写体だった。意識することなく、見たままの光景が文章になって表われる。はっきりとした表現力というものは、見たままをどれだけ素直に、個性的に表すことができるか、それだけのことなのかも知れない。素直に表現さえ浮かんでくればそこからいろいろな発想が生まれ、それが想像力として培われていくというものだ。一つの情景からだけでの発想は、見方を変えることによって、何人もの自分を見つけることができるのだ。
――文章を書くということは、もう一人の自分を探すこと――
よく友達と話したものだ。
私はリラックスする時に、人間を観察するようにした。人の動きも様々である。しかもこと駅前ともなると、いろいろな人の交差する場所である改札口は、恰好の観察場所でもあるのだ。一時限目の始まる前などは、サラリーマンの姿が見える。これから電車に乗って出勤するのだろうが、しきりに時計を気にしている。駅の時計を見ればいいものを、皆自分の腕時計を見てしまうところが面白いところだ。
午前九時を過ぎると完全に学生で支配される。当然のことながら学生の街として発展しているこの駅、乗る人より圧倒的に降者の方が多くなるのも仕方のないことで、サラリーマンと違い時計を気にすることもなく、皆のんびりムードが漂っている。
どちらかというと学生を見る方が私は好きだった。さすがに同じ年頃の人たちなので、気持ちも分かるせいか、行動パターンも自ずと知れてくる。待っている人が友達を待っているのか、恋人を待っているのかということまで勝手に想像したりしている。最初はなかなか当たらなかったが、最近では外れることの方が希だった。
人物観察は文章を書く上での訓練になる。そこから無限に広がる想像力が養われ、一人の人間に対して絶えず観察するのだから、知らず知らずに集中力もついてくる。たとえ、ただ待っているだけにしても、いくつくらいの人なのか、あるいはその表情から、誰をどのくらい待っているかなど想像したりする。もちろん立つ位置によっても微妙に変わってくるだろうし、その場合、その人の性格を判断することができる。相手に発見させやすい場所にいるのかも知れないだとか、あらかじめ約束した場所なのかということをである。
そんな時は時間の感覚が麻痺していることが多い。時間があっという間に過ぎていることは目の前にあるコーヒーが冷め切ってしまうことからも想像がつくが、時計を見るとやはり時間の経つのは早いようだ。
大学時代の私は、今から考えれば暗かったのかも知れない。友達もたくさんいて、それなりにガールフレンドがいたにも関わらず、密かに人物観察をしていたことは誰にも内緒だった。しかも、それを文章にしたとしても、結局どこにも発表しようとしないのだから、私の行動パターンを知っている人は
「暗いやつだ」
としか思わないだろう。
学生時代の私は二重人格だったのかも知れない。
無数にある集団のいくつかに顔を出す自分もいる。もちろん開放されたキャンパス内なので、いくつもの集団があるのも仕方がなく、それに複数所属する人もいるだろう。集団が、サークルのような形のあるものだけとは限らないからだ。
しかし私は、だからといって自分の性格を変えているつもりはない。どの団体にも同じような自分しか出せないからだ。二重人格というのは、団体行動する自分と、まわりを観察する自分との違いをいうのだ。
時間の感覚が麻痺するほど、一緒にいてとにかく楽しい女性に出会ったのは、大学を卒業してからだった。
大学を卒業すると、東京に本社のある会社に入社でき、しばらくは本社勤務が約束されていたこともあって、生活的には落ち着いていた。少し通勤には時間が掛かるが、東京という土地柄、仕方のないことであった。
入社してすぐに私は近くのOLと知り合いになったのである。いつも同じ電車の同じ車両に乗っていて、私の方には意識があった。視線は彼女を追いかけ、絶えず観察し続けていた。
――同い年くらいかな?
短大卒くらいなら私より社会人としてはベテランである。化粧もそれほど濃いわけではなく、ショートカットに少し小麦色に焼けた感じの雰囲気は、とても健康的に見える。
そんな彼女に離れず、かといってそれほどくっつくことなく、全体が見渡せる程度の距離に保っていた。
その日は混んでいたせいもあってか、私の位置は今までになく、彼女に最接近していた。
その日の混み具合は、ちょうど事故があったとかで、電車が二、三十分遅れていたことから招いた混雑である。乗れば乗るほど人が増えてきて、最初は最適だった彼女との距離が次第に近づいていったことは致し方ないことだ。
腕を少し動かせば、触れることのできるくらいの距離だった。じっと見るわけにもいかず、チラチラといった感じで垣間見る程度だった。
しかしそれでも彼女の異変にいち早く気付いたのは、しっかりと観察していたからだろう。
「はぁはぁ」
最初に気になったのは彼女の息遣いだった。確かにいつもは息遣いすら分からないほどの距離にいて、しかも空いている車内でのことなので、初めて聞いた彼女の息遣いがどれほどのものか、分からなかった。しかし、チラッとであっても垣間見る彼女の横顔が、次第に白くなっていくのを感じると尋常でないことは分かってきた。彼女のトレードマークでもある健康的な小麦色がみるみる変色していくのである。
悪いとは思ったが腕を少し伸ばして彼女の腕に触れてみた、完全に震えが来ていて、痙攣の一歩手前といった感じである。額からは汗が光っていて、どう見ても立っているのがやっとという感じであった。
「大丈夫ですか?」
思い切って彼女の身体を抱き寄せた。一気に掛かってきた体重は、彼女の身体から力が抜けていくのを感じさせ、今までかなり我慢して立っていたことを窺わせた。
唇に精気はなかった。額から流れ出る汗を必死で拭おうと腕を上げようとしているのだろうが、顔の近くまで来ては、しな垂れるように崩れ落ちる。
「え、ええ」
そこまで答えるのがやっとであった。幸いにもプラットホームに入る時間帯なので、彼女を抱きかかえるようにして、ホームへ降りた。ベンチに腰掛けさせると、少し落ち着いてきたのか、
「ありがとうございます」
と、こちらを見て微笑むまでに回復していた。たぶん、閉め切った空気の中で、あれだけの熱気や湿気で気分が悪くなったのだろう。表の空気に触れるだけでもかなり違うというものだ。しかし顔色が戻ってないことからまだ予断は許さない状態なのは間違いない。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、ここで少しゆっくりしているとよくなると思います。私貧血気味ですので、こういうことも時々あるんですよ。ご心配おかけして申し訳ありません」
まだ虚ろなのだろう。彼女の視線は私にではなく、とりあえず、前を向いていた。
「とりあえず、ゆっくりしてくださいね」
そういって私も彼女にしばし付き合うことにした。それにしても気分の悪くなった彼女には気の毒だけれど、私にとっては運命の出会いが訪れたような気がして仕方がない。
「よろしいんですか? 会社は」
作品名:短編集13(過去作品) 作家名:森本晃次