Hail mary pass
【5】
一九九〇年 十二月二一日 夜
「ほな、乾杯」
岩村が、いつもは見せない笑顔でビールグラスを掲げた。和馬と清水はそれに合わせて乾杯をし、ビールを飲み干した。かつて、和馬が勝馬を殴り飛ばした中華料理屋は、和馬が鏡を弁償してからも、灰野家の行きつけだった。岩村は三十五歳になり、オールバックの髪にぽつぽつと白髪が目立ったが、鋭い目つきは健在だった。三十歳を目前に控えた和馬と清水は、底なしに食べ、よく飲んだ。
「ここの麻婆豆腐は、ほんと美味いんですよ」
和馬が言うと、岩村はあまり関心がなさそうにうなずきながら、答えた。
「日本向けの味にしとるんやろうね。にしても、二人ともお疲れさん」
岩村が二人を飲みの席に誘ったのは、八六年以来二回目だった。その年は、桜鈴会が発足以来、初めて一人も殺さなかった年で、全員が元の持ち場で一年を平穏に過ごした。和馬は、居心地の悪い地元の署に缶詰になって暇をもてあましていたが、清水は親の助けも得て、その年に建設会社を興した。
「平成って、まだ慣れへんですわ」
料理をひと通り平らげた後、清水が紹興酒をちびちびと飲みながら言った。建設会社の社長という肩書きを得てから、清水は見た目からして成金風情になり、派手な模様が入ったセーターに、金色の腕時計を身につけていた。
「高岡さん、今日は忙しかったんですかね」
清水が言うと、岩村はマッチ箱を取り出し、煙草に火をつけてから首を横に振った。
「いや、今日は誘っとらん。仕事の話やないからな」
和馬が紹興酒のグラスをテーブルに置いて、咳払いをしてから言った。
「ついこないだ、うちの借金を完済した。帰ったら親父に聞いてみ」
清水は目を丸くした。桜鈴会に入って五年が経つが、和馬はずっと地味な服のままだ。その理由をようやく知り、清水は俯いた。
「お前、俺には何も言わんと……。親父もや。ひと言もそんなこと言いよらんかったぞ」
「お前には言わんでくれって頼んでたんや。終わってから言わな、かっこつかんやろ」
和馬は笑いながら言った。その横顔を見ていて清水の頭に浮かんだのは、子供だった頃、川べりで小石を投げているときに、和馬が見せた表情だった。遊びの中に、揺るがない真剣さが混ざっていて、自分よりも大人に見えたのを、清水は今になって思い出していた。
「ありがとう」
清水が言うと、和馬は心のつっかえが取れたように、うなずいた。
「こちらこそ、助かったわ」
二人が乾杯するのを見ながら、岩村はしかめっ面で苦笑いしながら言った。
「ほんま、仲良うせえよ自分ら」
しばらく二人が昔話をするのを聞いた後、岩村は言った。
「ちょっとだけ、耳に入れといてくれや」
二人が耳を澄ませると、岩村は両手を一度顔の前で合わせると、咳払いしてから言った。
「ええっとな。四年前から連続で殺しが起きてんのは、知っとるな?」
二人がうなずくと、岩村は清水のグラスに紹興酒を注ぎながら続けた。
「いずれ、こいつも浮かび上がってくる。被害者は、みんなひとり暮らしの年寄りや。頭だけ現場に残されとる。県内で起きとるから、清水はそれとなく探っといてくれや」
清水がうなずくと、岩村は和馬に言った。
「お前は今まで通り、遠慮なく撃つ練習をしとけ」
和馬は笑顔でうなずいた。すでに三人を殺していた。一人は気を失っていたのを、わざわざ起こしてから撃ち殺した。
「最後に仕事の話になってすまんな。ほな、俺は先に失礼するわ」
岩村は返事を待たずに会計を済ませると、一人で店から出て行った。残された和馬と清水は一瞬顔を見合わせたが、少し距離を空けて座りなおし、大きく息をついた。
「いつも気使うわ、あの人だけは」
清水が言うと、和馬は苦笑いを浮かべながらうなずいた。
「独特やな。そういや、弥生に子供ができたってな。おめでとう」
「本人に言うたれ。結局、親父は誰か分からずじまいや。おかんが面倒見とる」
清水は吐き捨てるように言うと、紹興酒の残りを一気にあおった。弥生は二十六歳。数年前からカラオケスナックの店員になり、飽きっぽい性格の割りに長続きしていた。しかし、気づいたら子供を身ごもっており、それが客との子供なのか、その時期に辞めていった店員なのかも、はっきりとしなかった。和馬と清水は、数年間、弥生の姿自体を見ていなかった。しかし、子供はまだ一歳にもなっていないはずだった。
「勝馬は、やっとレールに乗ったな」
弥生の話が出た以上、和馬にとって不肖の弟である勝馬の話になるのは、自然なことだった。和馬は少し眉をひそめたが、静かにうなずいた。
「そら、警官のお膝元やからな。真面目にやるしかないんやろ」
勝馬は、昔のへらへらした雰囲気がなくなり、三十歳を前にした男らしく、常識的な振る舞いができるようになっていた。二年前からバーテンダーをしており、それは人の噂話が耳に入ってくるからで、人探しという自身の仕事の助けになるよう、本人が選んだ仕事だった。
「最近、向山と中々連絡がつかん」
清水は愚痴のように言った。恩を着せるわけではないが、八年前の向山は酷い有様だった。着替えも持たず、刃の曲がったペンチとニッパーが唯一の持ち物で、住所すらなかった。どうやって生きているのか、皆目見当がつかない状態だった。
「普通、人間ってのはそういうもんやろ。自分の人生を生きとるんやから」
和馬が言うと、清水は急な呼び出しが体に染み付いていることに改めて気づき、力なく笑った。
「確かにな」
「もうちょい飲むか」
和馬が言い、二人は数軒をはしごした後、お互いの家に帰った。
次の日も休みで、昼前にようやく二日酔いの抜けた和馬は、地元の集落に向けて、買ったばかりのハイラックスサーフを走らせた。以前なら、林道に折れるところで心臓が高鳴り、坂を一気に上がるころには冷や汗が出ていたが、もう違った。借金の話は、これから出ることはない。実家は、ほとんど寝たきりになった父親と、一日中テレビを見ている母親。どちらかというと、清水家にお土産を持っていき、挨拶をするほうが居心地が良かった。日本酒を片手に扉を軽く叩くと、しばらくしてがらがらと扉が開き、寝巻き姿の弥生が出てきて目を丸くした。
「和馬くん、久しぶり」
数年ぶりに見る弥生は、かつての華奢な印象を残しながらも、目の奥に芯が生まれたように見えた。和馬はぺこりと頭を下げた。
「久しぶりやね。お父さんにお土産持ってきてんけど」
「そうなんや……、今日は両方とも町に出てるわ」
弥生は、何となく後ろを振り返った。肩をすくめると、和馬が持つ日本酒に視線を落とした。和馬は言った。
「ほな、渡しといてくれる?」
「うん、ありがとう」
弥生は日本酒を受け取り、和馬がきびすを返したところで、腕を掴んだ。
「ちょっと待ってよ。お茶飲んでいかんの?」
「悪いよ」
「いいよ」
遮るように言い、弥生は玄関の中に引っ込んだ。和馬は小さく頭を下げながら家に上がり、ストーブが赤く光る居間に置かれた座布団の上に座った。コーヒーが出てきて、和馬は笑った。
「お茶じゃないんや」
「うん。言い回し」
弥生はそう言いながら、はにかんだ。自分の座布団を敷いて、その上に座ると、ぽつりと言った。
作品名:Hail mary pass 作家名:オオサカタロウ