Hail mary pass
【4】
二〇一八年 一月三日 朝
朝の九時すぎ、寝室で高岡が着替えていると、敦子が心配そうに顔を出した。
「出かけるの?」
高岡はうなずくと、下の階を指差した。
「二人は?」
「まだぐっすりよ」
「夕方には戻るわ。なんか美味しいもの買ってくるから、リクエストを聞いてメールしてくれ」
「うん……、大丈夫なん? 昨日のテレビ?」
敦子が言うと、高岡は小さくうなずいた。
「現役時代に、関わったからね。ちょっと意見をくれって、呼ばれてるんや。稲本って覚えてるか?」
「ああ、あの若ハゲの……って、ごめん」
敦子が自分の言葉に吹き出し、高岡も思わず笑った。
「まあ、もう完全にいっとるやろうね。確認してくるわ」
外に出て、去年買ったばかりの最新型のスカイラインに乗り込む。エンジンをかけて、高岡は自身からため息が出るのに任せた。昨日、酔いの醒めた頭で調べて、居場所が分かったのは、たった一人だけだった。岩村は九五年に警察を辞めて、そこからは行方不明。しかし、灰野和馬は違った。岩村と同じ年に警察を辞めたが、二十年以上が経って限界集落になった地元の家に、今でも住んでいる。家の電話もまだ生きていて、当時の番号にかけると、当たり前のように和馬は電話に出た。枯れてはいるが当時と同じ張りのある声で、ニュースを見たと言った。
『ええ、自分も見ました。今度あの辺にマンションが建つらしいです』
ほとんど思い出話もなく、携帯電話の番号を交換した。
高岡は、心の中で敦子に謝った。稲本ともいずれ会うだろうが、今は違う。高岡家も植村家も知らない人間と、二十数年ぶりに顔を合わせる。思い出の中で、唯一美しくならなかったもの。それは、最も誇り高く、最も忘れてしまいたい記憶だった。あの時自分は、法律を超えた存在だった。
二時間かけて高速道路を乗り継ぎ、雪の残る山道を走らせながら、当時使っていた廃倉庫の方向へ折れる林道の入口をやり過ごす。今見るととてつもなく狭く、先には何もないように見えた。道はナトリウム灯が全域に渡って取り付けられて、道路の舗装も良くなっていた。待ち合わせ場所の道の駅を見つけた高岡は、スカイラインを駐車場に停めて、携帯電話の番号にかけた。
斜め向かいに停まる古いランドクルーザーから男が降りてきて、それが和馬であることに気づいた高岡は、年相応に老けていながら、かつて持っていた冷気のようなものがまったく失われていないことに驚いた。高岡がスカイラインから降りると、和馬は頭を下げた。
「お久しぶりです」
「久しぶりやな。お前、いくつや?」
「五十六です」
「結婚は?」
「結局、しませんでしたね」
和馬は手短に答えると、スカイラインに視線を向けた。
「この車、ほんとお好きですね」
「そうやな。他には乗れんわ」
包丁でぶつ切りにしたような不自然な会話を断ち切るように、和馬は言った。
「中で何か食べますか?」
「いや、お前の車の中で話そう」
車体の高さに辟易しながらランドクルーザーの助手席に乗り込んだ高岡は、大きく息をついて言った。
「年寄りにはかなわん。当時のこと覚えてるか? もうだいぶ前の話や」
「覚えてますよ」
「最後には、二十九箱あった。九五年の秋に、全部捨てたな」
高岡は、自分を納得させるように言った。和馬もうなずいた。
「自分も、立ち会いました」
「当時連続殺人があったから、今のところその関係やと思われてる。でも、実際には俺ら絡みやろう。箱に骨を詰めてたんは、俺らしかおらんからな。番号の話は出んかったから、おそらく何も書いてないはずや」
高岡が言うと、和馬は自身の考えを補強するようにうなずいた。
「自分は、あの仕事に関わったことを誇りに思ってます。最初は腹も立ちましたけど、最高の仕事でした」
高岡は虚を突かれたように、息を止めた。
「どうしたんや急に?」
「言う機会がなかったので」
和馬は静かに言うと、笑った。高岡はようやく和馬の言葉を飲み込むと、うなずいた。九五年の秋、まるで最初から運命付けられていたように、なし崩し的に全てが終わった。捜査費が消えたのが始まりだった。ある日突然口座が空っぽになり、それに気づいたのは岩村だった。
高岡は、呟くように言った。
「唯一心残りがあるとしたら、最後は身内で終わったってことかもな」
結局、思い出話になっていた。捜査費の半分は、車のトランクから見つかった。パールホワイトのセドリック。上品な出で立ちで、建設会社の社長が新車で買ったものだった。高岡は、今でもその事実に現実感がないということに、驚いた。よりによって、消えた金の半分が清水裕也の車から出てきたのだ。
「最後まで何も言いよらんかった」
言い終わると、高岡は呆れたように笑った。岩村が体中の骨をほとんど折っても、清水は残りの半分は知らないと言った。最後は、諦めた岩村が頭をバールで殴って殺し、その親指の骨は、『二十九』と書かれた箱に収められた。
「身内を殺った時点で、俺らは終わったんや」
高岡は感情のこもらない声で、淡々と言った。和馬はうなずいた。
「どんな団体でも、仲間割れを起こしますから」
「お前、弟はどないしてるんや?」
「音信不通です」
和馬が、雑用係として勝馬を引き込んだのは、自身が仲間入りを果たしてから一年が経ったときだった。好き勝手に犯罪を犯すよりは、自分の目の届くところで仕事をさせた方がいいというのが理由で、高岡は人探しや車の整備を任せた。ややいい加減なところはあるが、和馬と兄弟なだけあって、よく働いた。
高岡は頭を抱えた。和馬だけなら、今この場で話を終わらせることができる。しかし、九五年以来音信不通になった他の面子は、皆同じようにあのニュースを見ている可能性があるのだ。取り仕切っている人間がいない以上、誰がどんな行動に出るか、全く予測がつかない。先に見つけて、軌道修正する必要がある。高岡は言った。
「お前も地元を当たって、できるだけ関係者を探してくれ。誰か心当たりあるか?」
「いいえ。期待に添えるか分かりませんが、やってみます」
和馬は一旦首を横に振ったが、それでも可能性を残すように答えた。しばらく間を空けてから、言った。
「見つけて、どないするんです?」
高岡は、和馬の目に宿る光を見て取った。ずっと目の奥でくすぶり、火を起こす瞬間を待っていたように見えた。
「人がやることは予測がつかん。どないかして、先手を打つ必要があるやろうね。それに、あの箱は俺の知らんとこで作られてるからな。作った奴には、事情を聞きたい」
言葉はぼかされているが、そこから読み取れる内容は直接的だった。昔から高岡の言い回しは変わっていない。和馬はしばらく黙った後、レストランを指差した。
「やっぱり、何か食べませんか」
「そうやな」
高岡はうなずいて、ランドクルーザーから降りた。人目につくレストランで向かい合わせに座ると、ランドクルーザーの中とは打って変わって、話せることが少なくなった。高岡が言った。
「二年前に娘が結婚しよってな、最初はひやひやしたけど、ええ相手を見つけよったわ」
「最初は、どんな人か分からないですからね」
作品名:Hail mary pass 作家名:オオサカタロウ