Hail mary pass
【2】
二〇一八年 一月二日 夜
「奈緒美、あの芸人出てるよ」
夫の充が言い、慌てて居間に戻ってきた植村奈緒美は、テレビの前に座ると前のめりになった。奈緒美の母である敦子が笑いながら、充に言った。
「ほんと、昔からテレビっ子でねえ。ごめんね」
「いえいえ、昔話でよく盛り上がるんですよ。奈緒美さん昔のテレビもよく覚えてるから」
「しーっ」
奈緒美が充に言い、芸人二人が軽妙に話すのを見ながら、からからと笑った。こたつでひとりだけ横になっているのは、奈緒美の父である龍一で、年齢にそぐわない量の日本酒を飲んで、すっかり酔いが回っている状態だった。二年前にお互い二十七歳で結婚してから、正月はお互いの実家に顔を出していたが、充は奈緒美の実家の居心地のよさに、すっかり馴染んでいた。人に酒を勧めながらすぐに酔っ払って寝てしまう父と、奈緒美の未来形のような明るい母。
「最近よく出ますよね、この人たち」
充が言うと、敦子が笑った。
「ねえ、いつまで持つかな。一発屋で消えないといいけど」
「ほんとね」
奈緒美が相槌を打ちながら、こたつの上に置かれたバスケットから柿の種をふた粒取り、ひとつを充に差し出した。
「はい、めっちゃ塩ついてるやつ」
「ありがと」
充が、奈緒美の手から鳥のように素早く柿の種を回収し、新しく出てきた芸人に眉をひそめた。
「これ、苦手なやつじゃない?」
「ほんとだ、変えよ」
奈緒美が言うのと同時に、すでにリモコンを持っていた敦子が違うチャンネルのボタンを押した。まるで一人の人間が二つに分かれたようで、充は言った。
「息合ってますよね」
「まあね、長いもん」
奈緒美が代わりに答え、テレビのアナウンサーが割って入った。
『……今年で二十四年を迎えます。最後の犯行は一九九四年であり……』
充は、その事件の事を知っていた。一九八六年から九四年までに起きた連続バラバラ殺人事件で、犯人は今も捕まっていない。奈緒美はじっとアナウンサーの声に聞き入っていたが、思わず『あっ』と声を上げた。
「進展してる」
敦子も思わず言った。
「すごいね、今ごろ捜査が進むなんて」
『……最後の犯行現場から北に十キロ離れた山中で、工事業者が地面を掘り起こしていたところ、木箱のようなものが見つかりました。中身は人骨と見られ、警察が身元の特定を急いでいます』
「箱に人の骨って、怖すぎ。工事の人、トラウマだね」
奈緒美が肩をすくめた。敦子が言った。
「お父さん、起きてる?」
「さっきから笑い声で、よう寝んよ」
龍一がむくりと起き上がり、目をしばたたかせながらテレビの画面を見た。その上気した顔から少しずつ血の気が引いて、日本酒が全て蒸発してしまったように、その目が鋭く光った。
「高岡警部、ご意見をお聞かせください」
敦子が茶化すように言った。龍一の頭の中で、記憶が一度に蘇った。真っ赤な火柱を上げるドラム缶と、骨の焼ける臭い。もう、何十年も忘れていた。すでに定年で警察を離れ、六十四歳になった今の自分には、到底似合わない光景だった。桜鈴会は、九五年に解散した。その際に、桐の箱は全て処分したはずだった。灰になるのを、この目で見届けた。
「最近はDNA鑑定も進んでるからな。身元はすぐ割れるやろ。ちょっとトイレ行ってくる」
龍一はゆっくりと体を起こし、携帯電話を持って廊下に出た。酔いは完全に醒め、代わりに頭の血管が結束バンドのように締め付けてくる。捜査本部で指揮を執る稲本は、かつての部下だった。携帯電話を鳴らすと、稲本はすぐに電話に出た。
「ニュースで見ました?」
「ああ、今やっとったわ。進んだな」
「ええ。実はもう、ちょっと前の話になるんですけど。身元が割れたら一気に行くと思います。バタバタしてたんで、後手になっちゃってすみません。また続報はお知らせします」
「せやな、よろしく頼むわ」
龍一は携帯電話から耳を離して、大きく息をついた。箱は、破棄するまで全て倉庫に置いてあった。最後の数字は『二十九』。それは、一九八二年から九五年までの十三年間に裁いた人間の数。
「九五年か……」
龍一は、特に用事もないトイレの前で、思わず呟いた。奈緒美が生まれたのは八八年、自分は三十五歳だった。一番忙しかった時期で、捜査一課の強行犯係に所属していた。未解決に落ちそうな事件は全て、桜鈴会に回した。昼夜を問わず捜査し、運よく非番になった日は、桜鈴会の面子と顔を合わせた。解散するまで、娘の顔もよく覚えていなかったぐらいだった。
作品名:Hail mary pass 作家名:オオサカタロウ