慈雨と甘雨 8
デンシャは確かにやってきている。しかし、フミキリのかなり手前側で止まり、フミキリも天高く上げていた棒を地面と平行に下げたまま止まっている。渦を巻いたりしていた風も静かに止んでいた。風景の時間の流れを示すものが止まっているというのは何とも気味が悪く、これから先の出来事の不運を暗示しているようで、ジウは次第につかまっているフミキリの得体の知れなさを感じ始めていた。
唯一動いて見えるものが、デンシャの周りに居座っているモヤモヤで、にじみ出る熱さを本能的に感じている。デンシャの周り以外の時間が止まったように思えたのだ。
デンシャが動き出すとしたら突然のことで、その始まりをジウは感じることはできず、こうしてデンシャを見続けることでしか、その瞬間を感知できない。
本当に突然だったが、頭上で風が吹いた。今日感じていた油照りの下での風とは違う、冬の木枯らしのように冷たい風だった。この暑い気温の中のどこから吹いてきたのか、不思議なほどの冷たいもので、暖められた大地との差がジウの体をめぐり、その違和感は背中の火傷に響いた。背筋が凍るといった表現に近いものがあった。
咄嗟に上を見上げると変わらず夏空が見える。季節を無視したものが頭上を支配していることへの違和感より、突如現れた季節通りの風に対する違和感を強く感じた。そしてその冬らしい風を感じた時、なぜかカンウの言葉が頭に響いた。
「届かないところに行ってみたいということの何がおかしいのさ」
冷たい風はもう吹いていない。一瞬の風だったが確かにジウの体に当たった風にカンウの言葉がひょこっと乗っかっていた、ということなのだろうか。
届かないところ
ジウはフミキリから横に伸びる棒を見た。今、この棒の先まで進めば、デンシャが通ったあと、あの爆音の後にここより高い所まで行ける。空の天辺までは行けないが、今、届かないところへ行ける。おそらくカンウはこのフミキリの動作を見て同じことを思った。確証はどこにもないが、そもそも確証を必要としないとジウはそのまま続けた。
空を飛びたい。カンウはこの願いをかなえるヒントを求めて外へ出た。おうのカガクがそれを可能にするかもしれない。黒い体のちょうど今火傷があるところ付近に羽を生やしたり、何らかの力で浮くことが。実際に外の世界には空を飛ぶ手段がある。そのことをカンウは本で読んだのか、空想から見出したのか、わからないが、見つけたのだ。そしてその欲求はカンウの思考を支配し、芋虫の凄惨な死を何とも思わないほどの感情をカンウにもたらしたのだ。
ジウは空を飛びたいとは思わない。それ以上にうみを見てみたいという欲のほうが強く残っていた。フミキリの棒の緩やかな曲がり具合がフミキリの根元からも確認でき、棒がまた天高く昇ったなら、そのしなり具合から強く振り払われるようになると推測できた。カンウがこのことに気づかないとは思えず、おそらく彼も一度は登りたいと思っただろうが、ジウと同じく登ることを諦めただろう。
デンシャはまだ動かず、向こう側で止まっていた。同じ風景が続く中でどうも感覚が鈍っていくような感じに陥った。
危険だと分かっているが、やはり棒のことが気になる。黄色い棒は登るには厳しい表面をしているようで、太陽が反射して丸みを見せる。足が滑って途中で落ちれば、結構な高さからの落下を招くが、ジウはやはり登ることにした。
どうして登ろうと思ったのか、わからないが、カンウがそうすると思えたからと強引に理由を作った。
フミキリの根元から頭上を見上げ、棒が伸びるところまでを認識し、まずそこまで目指すことにした。地面と垂直にあるフミキリの根元をどう登ろうか、とよく根元をみると細かい凹凸があった。ジウはその凹凸に足をかけ、ゆっくり一歩登った。表面の黄色はフミキリ本来の色ではないようで、よく見たからわかったが茶色の中身が見えている。その茶色の表面に黄色い膜がぐるりと張り巡らされているものがフミキリというものの正体だった。その表面の黄色はとても薄いようで、はがれた黄色をちょっと触ると紙のようにペラペラなものが地面に落下した。
ジウはフミキリの茶色い部分を探しては、そこに足をかけた。黄色い部分よりわずかな凹凸が茶色い部分にはあり、ジウの足にいい具合に吸い付くのだ。垂直な登りだったが、特に苦労することなく、ジウはフミキリの根元を登りきり、棒が伸びるところまでやってきた。
下から見る棒はとても細いものに見えたが、実際目の前にするとだいぶ太いものだと分かり、ジウは何のためらいもなく棒を進んだ。右手の方にセンロがあり、センロの上を浮かんでいるような感覚と共に、おうのむらの家を思い出した。もしかしたら細い何かがあの家の下にあり、どこかの高い塔に括りつけているだけなのかもしれない、とジウは思った。
右手側の景色には今、進んでいる棒と同じものがあり、高さも同じため、何とも奇妙な風景に思えて仕方がなかった。ジウの足がつく棒があるところが地面に思え、その下の草や木が根を下ろしているところは透明な土に包まれた地下に思えた。
センロを挟んだ向こう側の景色はやはり夏のものに似ていて、蝉の声が聞こえてきそうなほどの雰囲気を持っていた。
そういう夏の空気があるのにもかかわらず、棒はどこか冷たい質感をしていた。表面の温度は確かに熱せられていて熱いが、その奥に冷たいものを感じるのだ。それはちょうど冷め始めたスープのようで、内側から冷えていくような。しかし、スープと明らかに違う点はまだ暑いということだ。空気が冬のようだったらスープのようだと簡単に言えたかもしれない。
内在する冷えたものが何かわからないが、その冷えたものが足場をかなり安定させているということは確かで、ほとんど揺れることもなく安定した棒の上をジウはどんどん突き進んでいた。
反対側の棒の位置からして、おそらく半分ほど進んだ。その間、デンシャはもちろん動かず、他の生き物も現れることもなかった。草は相変わらず風に揺られず、太陽に照らされ緑色を濃くしていた。
立ち止まり、草の色の濃さにジウは驚いた。見覚えのある草のはずなのだが、明らかに以前に増して色が濃くなっている。太陽によって赤色、もしくは朱色が足されて緑が変色したということなのだろうか。
そうではない。これまで目線と同じ位置にあった草が透明な土の下に埋もれ、見下ろしたことで色が変わって見えたのだ。落ちている石も全く別のものに見える。おそらく自分より大きな石だが、目と同じくらいの大きさに思え、砂粒など見えるはずもなく、ただのぺっとした粘土質のものが広がっている。視点の変化がこれほどまでの違いを見せることに驚いたのだった。
視点の変化によってもう一つ大きなものが違って見えた。デンシャだ。振り返って進んだ距離を確かめた際に大きく見えたあのデンシャ。フミキリの根元にいた時と距離自体は変わっておらず、むしろ進んだ分だけ遠くなったが、高くなった視点の影響から物理的には考えられない距離感を感じる。