慈雨と甘雨 8
今、こうしてフミキリを見ていると、この天高く上がった棒を登りたいと二匹が同じ欲求を示すとは何とも不可思議で、ジウは知識に頼らない自由な発想を、カンウは自由につられながらも知識を扱う喜びを知ったのだろう。カンウがどういう経緯でここまで来たのか、ジウは一切知らず、あくまでジウの想像でしかないが、カンウが発想だけでここまで来たとは思えない。おうのカガクには出会って居なくとも、ジウが出会っていない未知の知識に出会い、それを吸収してあの家の中の誰よりもその分野で博識になったのだ。
雪はまだ融け切っていない。冬らしい冷たい風は一切吹かず、太陽に暖められた空気だけがフミキリのある風景を色づけていた。まるで春か夏のようなその風景は貴重な白い紙に描くには広すぎる。
その均一に吹いていた風に一つ大きな風が混じり、草を大きく揺らし、風の音を出した。その風はジウの右の方から吹いてきた。
まっすぐではない、波打つのでもない、不規則な風が視覚できた。空気にばらまかれた砂がさらさらと流れるように、何かが空気に紛れて流れていた。ぐるっと回ったり、勢いよく飛んだり、くるくると渦を巻いたりしていた。太陽がその風にあたり、煌びやかにその様子を照らし出し、風はかなり鮮明に見えるようになった。
フミキリを目の前にし、残り雪を背に風を見ているとあの爆音がジウの全身を一気に揺らし、全身の血が沸騰するかのような感覚に陥った。爆音はフミキリからでているようで、風の様子がフミキリを中心に歪んで見えた。フミキリの棒がゆっくりと倒れていき、その動きに合わせて赤い何かが頭上で光っていた。現れては消える、赤いものは音に合わせて動いていて、左、右、左、右とリズムよく動いていた。そういうフミキリの様子を冷静に見るには、この爆音の凄まじさが邪魔であったが、それほどまでに巨大な音だったため、返って他の音に左右されずにフミキリを見ることができたのも事実であった。
耳をふさぐということが必要がない、体を通して伝わる爆音は止まらないが、棒の落下はあるところで止まった。急な静止に伴う揺れが棒にあり、ぶらんぶらんと揺れている。その様子はどこか垂れ下がった草のようで、少しばかり、フミキリに自然の一面を見たように思えた。
風のおかしな様子を見ながら、カンカンカンカンと音を出すフミキリも見ながら…、音と風景がいい具合にはまり始めた。そのはまりかたが自然で、夏の蝉の声のように雰囲気に合っていた。ジウはすでに爆音になれ、体を揺らす爆音のなかでもかなり正確に意識を保てるようになっていた。おそらくこの爆音が耳を通して伝わる程度のうるさいものだったならば、ジウはここまで簡単に爆音に慣れることはできなかっただろう。聴覚を超越するまでの爆音は感覚を麻痺させたということなのだろう。
音が止まるまでしばらくあったが、音の消失によって、体は何にも揺らされることなく、静止することができたわけだが、受け入れた爆音がきえた結果、体にどこか物足りなさを感じた。
(それは宇宙に放り出された生き物が感じる無重力に似たものだろう。日常では感じない重力が体のふわりとした感覚によって自覚されるのだ)
ジウはその物足りなさというものを初めて感じた。自明に転がっているものの消失は日常では起きえない。あの家の中ではなおさら非日常が起きることはなく、この物足りなさを感じることはできない。感じる必要がない、とあの家の蟻たちは言うだろう。そしてカンウだけがそれに興味をもち、図書館で月明りを頼りに互いの顔をうっすら確かめ、話を進めるのだろう。
カンウがジウのことをどう思っているのかは、全く見当もつかないが、それでもカンウとまた会えたなら、クミンでも飲みながらゆっくり話をしたいとジウは思った。
あのおうの話では、センロの上をデンシャがあり得ないほどの速さで走り去り、フミキリの前を通る少し前から、フミキリから耳で捕えられないほどの爆音が出てくるということだったが、デンシャがフミキリを通過した記憶がない。爆音に紛れてものすごい速さで通り過ぎたならわからなくともおかしくはないだろうが、その通過に伴うフミキリが出す爆音とは違う音や、風の変化を感じることはできただろう。渦巻く風の様子も一直線に走るデンシャの残像にまかれながらがらりと変化する。ましてやジウはフミキリの爆音に慣れていた。
おかしいと思い、フミキリの周りを見渡すと右の景色に見たこともない生き物がでんっと居座っていた。伸びるセンロにちゃんと乗っかり、かなり長いのだろう体の正面と少しの側面だけが見えている。ここから見るとセンロは右に少し曲がって見える。直線だと思っていたセンロはゆっくりと曲がっていた。
フミキリから体を乗り出すようにしながら向こうのデンシャを見る。センロに似た色をした顔には、黒い目が一つ、大きく真ん中にあり、その下に青い線が一本横に走っていた。その青い線は顔の向こう側の体の側面にも続いていて、曲がって見えなくなるところの限界まで青い線は伸びていた。
デンシャは蛇に似ていた。昔、図鑑で見た蛇は濁った雨水のような色をし、黄色い目をぎょろっと二つつけていた。その体の長さはかなりのもので、口に入り、肛門までたどり着くにはあの家の螺旋階段を二十回上り下りするほどの距離があると書かれていた。今思えば、どうやって計ったのか、蛇に飲みこまれた蟻が生還して、あの図鑑を書いたのなら、よほどの勇気の持ち主だろう。ちょうどカンウのように。
デンシャの体はつるっとしているようで、太陽が当たるとキラッと輝いている。蛇のように円柱のような体ではなく、角柱のような体つきだが、その煌びやかな表面の様子から体の角が取れて丸く見えた。
デンシャの長さはどれくらいだろうか、とデンシャの傍に落ちていた草の長さから推測した。想像できないほどのものであることは初めからわかっていたが、あれほどの長さのものがセンロ上をものすごい速さで通り過ぎたなら、一体何がセンロ上に見えるだろうか。
雨が勢いよく降り、草に当たるときに見えるあの瞬間的な美しさは見えている以上のものがあると思うが、そのようなものがセンロ上にも見えるかもしれない。そしてその映像は太陽の光によって後ろから際立たされ、通り過ぎるデンシャの影によって背中の火傷は少しばかり癒される。
しばらくデンシャの体を遠くに見ながらフミキリの根元につかまりながらいたのだが、デンシャが動く気配が全くなく、太陽がデンシャの表面を暖め続け、周りの温度の上昇が視覚的に伝わってきた。デンシャの周りがモヤモヤとゆっくり動き出し、周りの草はそのモヤモヤに熱せられているのか、葉っぱの張りをなくしていた。
フミキリが鳴ったということは、デンシャが通り過ぎるということ。おうの話しはどこか信憑性に長けていて、ジウは根拠もなく、おうの話しを信じ込んでいる。