慈雨と甘雨 8
「向こうに踏切が見えるか?あそこまであいつは行った。ここからその様子を見てたからな。その後どこに行ったか全く知らん」
色が一段と濃い枝と細い枝の向こうにあの黄色い何かが見えた。右手には少し下に直線に伸びるあれもあった。おうの言葉を借りると、あれはセンロというものらしい。デンシャという大きな生き物が走るらしい。一日に三回ほど轟音と共にやってくるらしい。
「あれがフミキリ。さっき見た黄色いものもフミキリなのか?」
「そいつはおそらく滑り台だ。おっきな生き物がきゃーきゃー騒ぎながらあの上から滑っていくのを見たことがある」
おうは持っていた鞄から白い紙を取り出した。この付近では紙は貴重ではないのか、あまりにも杜撰な扱いようだった。
「最後に一つ、旅蟻さんの名前とあいつの名前を聞かせてはくれないか。会った奴の名前をこの紙に書くのが最近の楽しみなんだ。あいつは名前を聞く前にどっかいっちゃったからな。太陽が沈んだ頃に微かに見える文字を見ながらおまえさんたちのことを思い出して寂しさを紛らわすんだ。この辺にはあまり生き物はいないからさ」
おうが持っていた紙には確かに文字が書かれていた。次男蟻が知らない、おうのむらでも見なかった文字だった。まるでナメクジが葉っぱの上にいた証のような、流れるような文字だった。
その中に経年劣化からか、紙に染み込むような形で見にくくなった文字があった。それだけがとても綺麗に、丁寧に書かれ、また見たことのある文字だった。その文字は次男蟻の頭蓋骨の内側に張り付くように残ったが、自分で頭の内側を見ることができないように、次男蟻は意識的には気づくことなく終わった。
「僕はジウ。彼はカンウだ。ここまでありがとう。また今度会えたらクミンでも飲みながら話そうじゃないか」
クミン?とおうはもともと丸い目をさらに丸くしている。やはりこのおうとあのむらのおうは関係がない。
おうはいつの間にかいなくなっていて、ジウは風に吹かれながら一向に動かないフミキリを見ていた。フミキリは二つの物体がこちらとセンロを挟んだ向こう側に一つあった。その二つのフミキリは、天高く掲げた棒が何とも自然のものとは思えない雰囲気を醸し出している。そこらに生えている木も同じく天高く伸びているが、その根元のしっかりした様子や、日光をより多く受け取ろうという目的意識がみられるため、フミキリとは大きく異なる。フミキリは目的もなく、ただ天高く棒を伸ばしているようだった。
センロもまた変わっていた。フミキリとセンロの付近だけ、大小さまざまな石ころがびっしりと詰まっているが、少し離れたところにはジウが今いるような枝や、木や草がありのままに生えていた。
ジウはフミキリがある地点より少し高い所にいるため、フミキリとセンロのすべてが見渡せた。おうの話し通りに暦が進んでいるなら冬迎祭はとっくに終わり、冬の貯蓄に勤しんでいるだろう。あの家の蟻たちも、むらのおうも、テントウムシという生き物も、そしてスベリダイを滑る生き物も。すべての生き物が命を繋ぐという本能を満たすために自制の時間を紡ぐ。
冬に似合わない太陽と風の温度は一向に変わらず、太陽が頂点に登った現在もその熱さは変わらずジウを襲う。思えばおうはジウの背中の火傷を指摘しなかった。痛みのひどさから重度なものだと思い込んでいたが、時間の経過とともに治っているのかもしれない。そう思い、背中に太陽の光を当て、じりじりと焼けるその痛みをもう一度自覚し、ジウはフミキリを背にケラケラと笑った。
そこにカンウはいないかもしれない。というよりいない。カンウが五日もの間一つの場所に居座るはずがない。ましてこんなに未知で魅力的で恐ろしい世界を駆け巡っていないわけがない。そういうカンウの姿がすぐに想像できる。フミキリを見ながらデンシャという生き物をまだか、まだかと待ちわびているだろう。どちらからくるかわからないが、センロをじっと見ていればいずれはやってくる。
そして一度デンシャをみたら、すぐに興味を失い、次は反対側のフミキリの方へ向かうだろう。何があるかはわからないが、こんなに小さな体なのだ。どんなに懸命に歩いてもこの星一つすべてを見ることはできない。代わりにこの星の広さが余計感じられる。なんともカンウが楽しそうな世界が広がっていた。
ジウはフミキリに向かってセンロ沿いを歩いた。もう崖はない。おうとともに枝をすり抜けたときにゆっくり下っていたのだろう。
フミキリと同じ高さまで降りると、草が茂っていたところに少しだけ雪が残っていた。その雪はフミキリにだいぶ近い所にあり、フミキリの棒の影が白い雪を少し隠していた。この冬らしくない暑さの中でかろうじて残っていた雪だが、その存命もあとわずかのようで、雪の表面が融けだし煌びやかに光っていた。風に揺られ草が揺れるたびに影に光が差し込み雪を融かす。その繰り返しで雪が融けていく。
その雪の塊の中心には何か、自然ではないものが隠れているかも知れない。それが透明で、融けた後の草の風景に紛れ込むことができてもしばらくは雪解け水がその存在を鮮やかに示すだろう。こんなに暑い気温の中で生き残る雪にはなんかがいる。ジウは雪の中の正体が気になったが、それ以上に眼前に大きく立つこのフミキリという生き物への興味が尽きなかった。
フミキリに触れるくらいまで近づくと、やはりその大きさと、草とは違う自然の魂が宿っていないように見える外観が何とも不思議で仕方がなかった。あの家の周りにあったものが持っていた空気感とは異なるものがこの世界には無数に存在し、それらを特別不思議に思わず、むしろそれをカガクといって扱うおうすらいる。知らないことがありふれた道のりだったと改めてジウは記憶を振り返った。
カンウがここに来たのは確かで、このフミキリに興味を持った。ジウとカンウは似ていない。しかし、未知の世界に放り出された結果はよく似た行動となって現れていた。カンウがこのフミキリをみて、どう思うか、それはおそらくジウが今フミキリに対して思うことと同じなのだろう。
あの棒に登りたい
そして空に近く手を伸ばし
そのまま飛んでいるような恰好をしたい
できることならそのまま飛んでみたい
ジウは博識だった。本の知識はすべて頭にあり、的確にその知識を引き出す力もあった。
カンウは自由だった。発想は家の囲いに留まらず、行動はすべて異様に見えた。そしてそういう発想を語る力もあった。
二匹の極端なまでに悪い相性があの家では露見し、部屋で本を読むジウと外で蝶を追うカンウという正反対な行動や意識から互いに理解する対象として認識していなかった。
それでも彼らが過ごした年月はどこかで同じ道を微かに残し、一方は地下に、一方は空中に進んだだけで、見下ろせば、見上げれば同じ場所を歩いていた。
色が一段と濃い枝と細い枝の向こうにあの黄色い何かが見えた。右手には少し下に直線に伸びるあれもあった。おうの言葉を借りると、あれはセンロというものらしい。デンシャという大きな生き物が走るらしい。一日に三回ほど轟音と共にやってくるらしい。
「あれがフミキリ。さっき見た黄色いものもフミキリなのか?」
「そいつはおそらく滑り台だ。おっきな生き物がきゃーきゃー騒ぎながらあの上から滑っていくのを見たことがある」
おうは持っていた鞄から白い紙を取り出した。この付近では紙は貴重ではないのか、あまりにも杜撰な扱いようだった。
「最後に一つ、旅蟻さんの名前とあいつの名前を聞かせてはくれないか。会った奴の名前をこの紙に書くのが最近の楽しみなんだ。あいつは名前を聞く前にどっかいっちゃったからな。太陽が沈んだ頃に微かに見える文字を見ながらおまえさんたちのことを思い出して寂しさを紛らわすんだ。この辺にはあまり生き物はいないからさ」
おうが持っていた紙には確かに文字が書かれていた。次男蟻が知らない、おうのむらでも見なかった文字だった。まるでナメクジが葉っぱの上にいた証のような、流れるような文字だった。
その中に経年劣化からか、紙に染み込むような形で見にくくなった文字があった。それだけがとても綺麗に、丁寧に書かれ、また見たことのある文字だった。その文字は次男蟻の頭蓋骨の内側に張り付くように残ったが、自分で頭の内側を見ることができないように、次男蟻は意識的には気づくことなく終わった。
「僕はジウ。彼はカンウだ。ここまでありがとう。また今度会えたらクミンでも飲みながら話そうじゃないか」
クミン?とおうはもともと丸い目をさらに丸くしている。やはりこのおうとあのむらのおうは関係がない。
おうはいつの間にかいなくなっていて、ジウは風に吹かれながら一向に動かないフミキリを見ていた。フミキリは二つの物体がこちらとセンロを挟んだ向こう側に一つあった。その二つのフミキリは、天高く掲げた棒が何とも自然のものとは思えない雰囲気を醸し出している。そこらに生えている木も同じく天高く伸びているが、その根元のしっかりした様子や、日光をより多く受け取ろうという目的意識がみられるため、フミキリとは大きく異なる。フミキリは目的もなく、ただ天高く棒を伸ばしているようだった。
センロもまた変わっていた。フミキリとセンロの付近だけ、大小さまざまな石ころがびっしりと詰まっているが、少し離れたところにはジウが今いるような枝や、木や草がありのままに生えていた。
ジウはフミキリがある地点より少し高い所にいるため、フミキリとセンロのすべてが見渡せた。おうの話し通りに暦が進んでいるなら冬迎祭はとっくに終わり、冬の貯蓄に勤しんでいるだろう。あの家の蟻たちも、むらのおうも、テントウムシという生き物も、そしてスベリダイを滑る生き物も。すべての生き物が命を繋ぐという本能を満たすために自制の時間を紡ぐ。
冬に似合わない太陽と風の温度は一向に変わらず、太陽が頂点に登った現在もその熱さは変わらずジウを襲う。思えばおうはジウの背中の火傷を指摘しなかった。痛みのひどさから重度なものだと思い込んでいたが、時間の経過とともに治っているのかもしれない。そう思い、背中に太陽の光を当て、じりじりと焼けるその痛みをもう一度自覚し、ジウはフミキリを背にケラケラと笑った。
そこにカンウはいないかもしれない。というよりいない。カンウが五日もの間一つの場所に居座るはずがない。ましてこんなに未知で魅力的で恐ろしい世界を駆け巡っていないわけがない。そういうカンウの姿がすぐに想像できる。フミキリを見ながらデンシャという生き物をまだか、まだかと待ちわびているだろう。どちらからくるかわからないが、センロをじっと見ていればいずれはやってくる。
そして一度デンシャをみたら、すぐに興味を失い、次は反対側のフミキリの方へ向かうだろう。何があるかはわからないが、こんなに小さな体なのだ。どんなに懸命に歩いてもこの星一つすべてを見ることはできない。代わりにこの星の広さが余計感じられる。なんともカンウが楽しそうな世界が広がっていた。
ジウはフミキリに向かってセンロ沿いを歩いた。もう崖はない。おうとともに枝をすり抜けたときにゆっくり下っていたのだろう。
フミキリと同じ高さまで降りると、草が茂っていたところに少しだけ雪が残っていた。その雪はフミキリにだいぶ近い所にあり、フミキリの棒の影が白い雪を少し隠していた。この冬らしくない暑さの中でかろうじて残っていた雪だが、その存命もあとわずかのようで、雪の表面が融けだし煌びやかに光っていた。風に揺られ草が揺れるたびに影に光が差し込み雪を融かす。その繰り返しで雪が融けていく。
その雪の塊の中心には何か、自然ではないものが隠れているかも知れない。それが透明で、融けた後の草の風景に紛れ込むことができてもしばらくは雪解け水がその存在を鮮やかに示すだろう。こんなに暑い気温の中で生き残る雪にはなんかがいる。ジウは雪の中の正体が気になったが、それ以上に眼前に大きく立つこのフミキリという生き物への興味が尽きなかった。
フミキリに触れるくらいまで近づくと、やはりその大きさと、草とは違う自然の魂が宿っていないように見える外観が何とも不思議で仕方がなかった。あの家の周りにあったものが持っていた空気感とは異なるものがこの世界には無数に存在し、それらを特別不思議に思わず、むしろそれをカガクといって扱うおうすらいる。知らないことがありふれた道のりだったと改めてジウは記憶を振り返った。
カンウがここに来たのは確かで、このフミキリに興味を持った。ジウとカンウは似ていない。しかし、未知の世界に放り出された結果はよく似た行動となって現れていた。カンウがこのフミキリをみて、どう思うか、それはおそらくジウが今フミキリに対して思うことと同じなのだろう。
あの棒に登りたい
そして空に近く手を伸ばし
そのまま飛んでいるような恰好をしたい
できることならそのまま飛んでみたい
ジウは博識だった。本の知識はすべて頭にあり、的確にその知識を引き出す力もあった。
カンウは自由だった。発想は家の囲いに留まらず、行動はすべて異様に見えた。そしてそういう発想を語る力もあった。
二匹の極端なまでに悪い相性があの家では露見し、部屋で本を読むジウと外で蝶を追うカンウという正反対な行動や意識から互いに理解する対象として認識していなかった。
それでも彼らが過ごした年月はどこかで同じ道を微かに残し、一方は地下に、一方は空中に進んだだけで、見下ろせば、見上げれば同じ場所を歩いていた。