慈雨と甘雨 2
「彼らは未知の存在にただただ怯え、希望は一切見出さない。そしておれがまたその負の外に出ることを止めるだろう。一日中監視して、もしかしたら地下に閉じ込めるかもしれない」そういったあと、開いていた本を閉じた。彼は中の文字を一切見ていないだろう。
「だからこの話をするのは、実際に外の世界に興味を持っている変わり者だけと決めた。その一番の例が次男だっただけだよ」
月明りに照らされた彼の顔は散歩のときに蝶を追いかけるときのものと同じだった。
「おれは明後日くらいかな、また外の世界にいく。今度は帰ってこないかもしれない。外は未知だからね。おれは死ぬかもしれない。もしくは死以外の消失というものを体験するかもしれない。これまでとは違うものが赤い花の向こうにはあるんだ。…一緒にこないか」
彼はそういって次男蟻を見てきたが、次男蟻は何も言わずに本の山から立ち上がり、彼に背を向け、月を見た。あの月の真下の地面はきっと赤い花の向こう側だと思いながら。
次の日の朝、目覚めた瞬間の言いようもない嫌悪感が、胃液が逆流したかのように喉元にあった。声を出すことを億劫に思うほどの喉の痛みに気を取られ、自分がベッドではなく、絨毯など一つもない木の床に寝ていたことに気づくのが遅れた。体の関節が数時間の睡眠による体の圧迫により痛めつけられていることがわかる。同時に動かしたときの血流の再起が体にどう負担になるのか不安になった。
ここまで日常の起床に沿わない日も珍しく、次男蟻は自分の体以外に変化はないかと自分の部屋を見渡した。部屋のカレンダーには三日後に迫った冬迎祭の日付がしっかりと刻まれていた。日付には何も変化は起きていない。昨夜の記憶もきちんと残っている。
どこにも違和感がないことを確かめると、次男蟻は使わなかった布団に潜り込み、暖をとった。このごろはもう冷え始め、床から伝わる冷気が次男蟻の体を冷やしていたからだ。少し前の雨降る季節の時のように体に侵入してくるような嫌な臭いは全くしない。
寒い風が吹いているのか、窓ガラスが大きく揺れた。それによって発生した大きな音が止むと、小さな声が聞こえてきた。窓の向こう側でえいや、えいやと威勢よく繰り返される掛け声はおそらく冬迎祭の準備だろう。去年も同じようなものが聞こえた。
布団にくるまり、いい具合に自分の体が布団と一体化し始め、もう一度眠りにつきそうになったその時に部屋のドアが勢いよく開かれ、三匹の大人蟻が中に入ってきた。一人は彼の世話役のヒュウだった。次男蟻は布団を身からはがし、ベッドに座りなおした。
「いきなりどうしたんです」
「長男がいないのです。昨夜、私に図書館に行ってくると言ったきり…。あそこにあなたはよく行きますね?昨夜長男とは会いましたか?」
ヒュウは身に着けたエプロンを握りしめながら興奮した様子で次男蟻にそういった。窓の奥では例年通り冬迎祭の準備が行われている。
このとき、次男蟻はなぜか彼との遭遇、会話を隠したくなった。
「いいえ、昨日も図書館にいましたが、特に誰も来ませんでしたよ、いつも通り。そんなことより冬迎祭の準備は進んでいるんですか?」
「冬迎祭は順調です。おそらく去年と同じようにいい具合に進むでしょう。それよりも私にとっては彼の行方が気になります。今日は特に仕事も入っていないはずなんです。どこに行ったのか…」
そういうとヒュウは一礼して次男蟻の部屋を出ていった。邪魔をしましたねと横にいた蟻の一匹が言いながら部屋を出て、ドアを閉めた。窓の向こうは相変わらず風が吹いている。
ヒュウたちの退室の後、次男蟻はもう一度布団を身にまとい、彼との会話を思いだした。彼は明後日、外に向かうと言った。あの時刻が0時を回っていたかは記憶していないが、それにしても今日出ていくことは彼の言葉からは想像できない。つまり、彼の気まぐれが自然と現れたということだ。
あの時の彼の表情だとか、言葉はどこか未知なものを孕んでいるようだった。その様子を形容するには、この家は閉鎖的で、次男蟻の知識は無意味なものだった。もっと飛躍した何かが彼にはあった。
布団中で目を閉じていると、机に置いたままの薄い本の「うみ」というものの色を思い出した。明確な色の名前が浮かばないその絵が彼の背後に三次元的に浮かび上がった。その様子を次男蟻の記憶に当てはめ、記憶を再構築すると、その完璧な仕上がりに一時酔いしれた。
彼はおそらく外に出ていった。地図だとか、荷物だとかそういう準備は一切行わず、身一つで赤い花の毒をかわしながら。そしてそのことを知る者は次男蟻以外この家には存在しない。一番近い存在であるヒュウもしらない。
「何か知っているんだろう」
突然聞こえた声に次男蟻は布団から飛び上がり、そのままベッドから転げ落ちた。体勢と視力を整え、声のする方を向くと一匹の蟻がいた。
「君は」
「僕はツヒ」
「どうやってここに入った」
「ヒュウさんたちと一緒に入ったさ」
ツヒという蟻はその様子から子供蟻だと分かる。大人蟻と子供蟻には明確な違いがあるのだ。どこかと言われると指摘できない。
「何か知っているんだろ?あなたは賢い蟻だ。彼の不自然な行動にもいち早く気づいていた、そうだろう?」
ツヒは次男蟻に一歩一歩近づいてきた。今は次男蟻の横に座り、返事を待っている。
「これは推測だけど、僕はあなたがほしいものを与えられる。あくまでも、僕の勝手な推測だけどね」
緩やかな微笑みを浮かべながらそういってくるツヒがどうも悪魔のように思えてきた。ささやきに惑わされる必要はない。
「申し訳ないが、僕は何も知らない。長男蟻がどこにいったのかも、君が何を思っているのかも」
そういうとツヒは次男蟻の横から素直に立ち上がり、ドアを開けて出ていった。無言の退出にいつでもいいから話してくれというものを感じたが、それは全くの思い過ごしかもしれない。
ツヒは確かにこの家にいた。ツヒとの対面の後に、すぐさま鏡である程度の身だしなみを整え、一階に続く、明るい色の木でできた螺旋階段を無表情で降り、冬迎祭の準備に勤しむ大人蟻に挨拶をかわしながら食堂に向かうとそこには子供蟻たちと談笑するツヒがいた。ツヒは次男蟻を見ても表情一つ変えず会話を続けていた。まるで何も見えていないかのように。
次男蟻はツヒの姿が見えるぎりぎりの椅子に座り、運ばれてきた軽い食事を食べた。椅子がほんの少し傾いていて、少し体を動かすと小さな音を立てる。次男蟻が飯を咀嚼するたびに口に入れた食物は細かくなっていく。喉を通るギリギリの大きさまで噛み砕いた食物を飲み込もうと次男蟻は目を閉じた。喉につかえることを恐れてだ。特にその行為に意味はないがそれでも次男蟻は自我が生まれてからこの瞬間までその行為を続けていた。どんなに知識を手に入れてもこの行為をやめて、何回も何回も咀嚼を繰り返すことは試みたこともなかった。
2,3回、食物を口に運んで咀嚼をしていたとき、一度だけ目を開けるとツヒの姿が見えなかった。向こうのテーブルにはこぼしたスープのあとも、誰かの忘れ物も一切なく、使われた様子がきれいに消えていた。椅子ももちろんきれいにテーブルに収まっている。
「どこに」
「ここにいるさ」