慈雨と甘雨 2
そういって彼は足元に落ちている四季の本を傍の台に置き、黒の向こうにある本棚に向かい体をまた黒く染めた。実際には次男蟻には見えない。この状況は実にまずいと一瞬で察した。彼は今、こういいたいかもしれない。外の世界について何か知っているか、と。
次男蟻は彼女(最年長の)に聞くことを拒んだが、彼が次男蟻と同じ思考をするはずがない。おそらく疑問はすぐに問いになって口から出てくる。そして、次男蟻が外の世界について何も語ることができないことを明確に知ることになり、彼の中で次男蟻は博識という式が途端に崩れ、自分は次男蟻より知識があると悟るだろう。
勿論、彼の持っている外の世界に関する知識は実用的ではない。あまりに個人的で、主観的な経験に過ぎない。しかし、それでも無よりはるかな有益性があるのだ。
いつ彼が声にするか。ここから立ち去ればその心配もないだろうが、ヘタに動くと彼の行動が本の捜索から彼への質問へと動く誘導の要因になってしまう。それだけは避けたい。
「なあ、赤い花の傍で何を見た?」
突然彼が放った言葉は月明りと共に吹いてきた風と共に次男蟻の頭をざらっと撫でた。どういう返答にも危険が伴う。
「何をいってるんだい」
「君はおれをつけていただろう。赤い花の近くで君の気配を感じた」
次男蟻は彼の方を向かなかった。彼に背を向け外の月を見ながら本の裏表紙を撫でる。
「これはおれの予想でしかないから、間違っていれば君はかなりとんちんかんな空想を聞くことになるだろう。君はなぜかおれをつけていた。おそらく俺が枯れ葉集めに出発する前から。そして無断で家を出た、違うか?」
次男蟻は椅子の背にもたれかかるような体勢を取り、あくまでも聞き流すようなそぶりを取った。
「そして君は見たはずだ。おれが赤い花を潜り抜けるところを」
次男蟻の知識と経験はこれ以上先にはまったく役に立たない。
「その先に何があったか、知りたくはないか?」
彼は自分の方を向かない次男蟻相手に赤い花の向こうで見たことを延々と話し続けた。赤い花の向こうにはそれまでと変わらない風景が続いていること。しかし少し進むと湿気がひどくなり、落ち葉がやけに滑るということ。そのさらに奥の道は雨の日の空模様よりも白っぽい色で、かなり固いということ。彼が目を通してみたこと、体を通して感じたことを事細かに話し続けた。その未知の世界を一つ一つ聞くたびに、次男蟻の知識が広がると同時に未確認で不確かな情報があふれ出した。思考がふわふわと浮遊し、座らない。確実性のある知識のあとに経験や伝聞を通してさらに強固になった事実だけを吸収してきた次男蟻にとって彼のもたらした情報は腐った食物のようなものだった。消化されることはない。
食物が厄介なのは、お腹を壊し、強引に排泄することはできないということだった。
「赤い花には近づいてはいけない、そういわれてるだろう?この警告が単なる毒を恐れたものだとはおれにはどうも思えなかったんだ。周りの大人たちは外に一切興味を抱かない。確かにこの家とその周辺には生活に困らない程度のものがあったからね。そういう実生活的な意味で必要がなかったのかもしれない。でも中には意味がないものに興味を抱くやつがいてもおかしくないだろう?だからおれは赤い花に近づいた」
彼は相変わらず月明りが届かない本棚付近で本を一冊取り出しては暗闇で目を凝らしその題名と表紙の様子を確かめ、元に戻していた。一冊一冊取り出しては戻すのを繰り返し、一歩一歩月明りに声の変化で分かる。近づいてくるのがわかる。
「赤い花には毒があるのに、どうして通り抜けたりなんかしたんだ。下手したら死んでいたんだぞ」
「やっと口を開いたな。そろそろこっちを向いて話そうじゃないか」
次男蟻は椅子から立ち上がり、そばにあった本の山にゆっくりと座り、彼の方を向いた。もう本は必要ない。
その様子を見た彼は一歩月明りに近づき、右の足を黒に塗りつぶされた陰から出し、次男蟻と向き合うようにそばにあった本の山に座った。
「少し前に本当に毒があるのか実験したんだ」
実験と次男蟻が繰り返すと彼はなんともないような口ぶりで芋虫の話をした。
「君は芋虫を実験台にしたのか」
「そうだね」
「君は芋虫を殺した」
「そうだね」
「なのに君は平然としている」
「そうだね」
「罪の意識はないのか」
「そうだね」
一気に問いかけた次男蟻は、彼の目が一切揺れることなく月明りに照らされていたのを見て、こいつはやはり何かが違うと確信した。
「僕はある人から命について話を聞いたんだけど、その日はものを食べられなかったよ。そういう命に対する…こう…何かは君にはないのかい?」しばらく黙った彼はこう続けた。
「仕方がないじゃないか。芋虫君の死より外の世界に興味が湧いていたんだから。彼の死を悲しむのに頭の多くを使えるほどおれは暇じゃないんだ」
「君は非情だな」
「そうかもしれないが、それがどうした」
外への興味に子供のように一心不乱にすべてをつぎ込む彼のまっすぐな瞳を次男蟻は見つめ返すことはできなかった。
次男蟻は彼との話の終わりを模索したが、価値観が違う者同士の意見の対立は平行するだけで交わることはなく、また交わる必要も感じられなかった。
この話の終結は沈黙がふさわしいと次男蟻は一切何も話さないように心得た。彼はそのあとも外の世界について、情緒豊かに話していたが、その多くは聞き流していた。
月明りが一層強くなるにしたがって奥の本棚は一層暗くなっていく。その様子をじっと眺めていると一つ疑問に思った。彼はなぜ玄関先で集まった皆に外の世界について語らなかったのだろう。もちろん、次男蟻が予想していたように、外を享受するための土壌が育っていないと彼も判断した可能性もあるが、その予想は次男蟻が思いついたもので、彼がそれと全く同じものを思いつく可能性は大いに低いように思える。それこそ気まぐれに話を始めることの方がありそうなものに思えた。
「君は今、なぜこの話を君だけにしているのか疑問に思っているな」
彼はそういった。瞬間に聞き流す状態になっていた耳が硬直し、彼の言葉を真正面から受け止める態勢をとった。
「どうしてわかったんだ」
「そんなことは重要じゃない。ただの気まぐれだと思えばいいさ」
彼は座っていた本の山から立ち上がり一冊手に取り、一冊分低くなった山に座りなおした。
「今、おれが座っていたこの山には文字や絵がたくさん詰められている。ご飯のことだとか、たくさんの蝶の模様だとか、たくさんだ。この中の多くをおれはしらないだろう。だが、それは知らないだけで創造はできうるものなんだ。この家の中に創造できないものは居座っていない。しかしだ。その創造を必要としない生活を送っていた蟻たちに突然創造が不可欠な外という世界について知らせたらどうなる」
彼は本を開きながら途中の一ページを次男蟻に開き見せるようにした。月明りで文字が霞んで見える。