慈雨と甘雨 2
彼の帰還を内心拒み始めて、二日が経った頃、家の中でも彼が帰ってきていないことが話題になり始めた。流石に二日も帰ってこないとこうなるのだなと次男蟻は彼らの鈍感さを笑った。その笑いを不思議に思った蟻もいたようだが、次男蟻は博識だというラベルのおかげでそれ以上の追及は一切なかった。
食堂で彼の話を耳にしながら遅い朝食を食べ、部屋に戻ると最年長の彼女が話していた四季についての本を読むことにした。表紙が布のような生地でできていて肌触りが気持ちいいもので、まだ読んだこともなかったが、その感触と本の厚さだけは常日頃から知っていた。
どれほどの厚さの本でも読み進めればきちんと終わりを迎える。この自明を次男蟻は好きだった。決まりきった道をただ進む。
布生地の本を触りながら、一ページ目を初めて読み始めて、そう思った。一行目、
時間という区切りを作ってから、この自然には明確に朝と夜ができ、その朝と夜の壁をなくす
ためにか、電気を作った。闇夜はなくなり、いつでもこの区切られた部屋には明かりが見えるの
だ。
四季とはどうも関係がないような文章だったが、なんとなく、この本は彼が書いたのではないかと思った。彼が木に登って考えていそうなものだ。そしてなにより、彼はこういう文章が好きだろう。本を読むかは別として。
十ページほど読み進めたところで本を閉じ、表紙を確かめるように触っていると部屋の外がうるさくなった。突然だ。大勢の蟻の声が聞こえる。意味のない歓声のようなものに紛れて長男という言葉が聞こえてきた瞬間の全身の寒気はなんとも言えないものだった。長男に関する何かが起きている。
本を机に置き、いつもの部屋の扉をいつも通り開け、廊下に出ると、子供蟻が皆廊下に出て、一回の食堂に向かっているようだった。その足音がうるさかっただけなのか、誰も歓声など挙げてはいなかった。両脇に六つずつ部屋が並んだ廊下の階段から一番遠いところに次男蟻の部屋はあるため、子供蟻たちの行動のすべての様子が一望できる。各々の部屋から無尽蔵に湧き出てきそうな子供蟻。そしてみなそろって一つの階段に向かっていく姿は、どこか科学論文の文章のようで、そのまま見ていれば、何か新しい知識が見つかるかもしれないと思わせるものだった。
子供蟻の流れに乗ってぐるぐると渦巻いている螺旋階段を下ると、赤い絨毯が広げられた玄関の前に彼がいた。大小、大勢の蟻に安全の確認をされ、その一つ一つに大丈夫だと声をかけていた。背中には枯れ葉が詰まった籠がちゃんとあった。
「どこにいってたの…」
そういいながら彼に駆け寄り、四本の手で抱きしめたのは彼の世話役のヒュウという女蟻だった。
「ちょっと仕事がてら散歩をしていたら道に迷ってしまってね」
「それならいいのよ。こっちはどこに行ってしまったのか心配だったのよ。まったく…。相変わらずね」
一瞬のざわつきは彼女との会話ののちに終わりを告げ、各々自分の生活に戻っていった。話題は彼が集めてきた枯れ葉の話に移り、彼がどこを迷っていたのかなど気にする蟻はその玄関には一匹たりとも存在しなかった。そんな中、次男蟻だけが彼の話したことに違和感を抱いていたのだが、それと同時に彼の口から未知の世界について何も触れられなかったことに安堵し、彼と目を合わさないようにそっと螺旋階段を昇って行った。籠に詰まった枯れ葉は次男蟻以外の蟻たちには重要なもので、次男蟻にとっては何の価値もない枯れ葉なのだ。
ひとまず彼から未知の外の世界についての他言がなかったことで、次男蟻が持つ博識という特徴は消え去ることなくこの家に存在している。部屋に戻った次男蟻以外に、実は…と彼が話している可能性もあるが、部屋の外から聞こえてくる声は子供蟻たちのはしゃぎ声ぐらいで、空について一生知る必要がない土竜たちに空というものの存在を伝える必要がないように、どうもその可能性はまったくないように思えた。
実際に外に行った彼と、それを目撃した次男蟻だけが地上に這い出た無謀な土竜で他のすべては自己の慣習や集団の枠組みを逸脱しない存在なのだ。
さらに彼は次男蟻が自分をつけていたことを知らない。自分以外の誰かに外の世界について語るには、その他者の意識の根底にそれを理解するおえでの土壌を築く必要がある。その土壌を耕している蟻はこの家にはいないと彼は思っているだろう。次男蟻ですらまだ土壌の存在を知っただけなのだ。手始めに赤い花の向こうに行けるということを教えなければならない。その行為を禁止している集団に向かってだ。
全く心配する必要はないと自分に言い聞かせながら、四季についての本をまた開き、読みだした。知識こそが次男蟻を確立させる。
月が今日も明るく見える。ただこれだけのことに多くの科学的な知識が含まれていることを気にするものはこの家には一人しかいないだろう。そういう気難しい科学などは放り投げ、目に見える月の明るさや、その色に心を落ち着かせるのがこの家なのだ。
月が見えるといったが、次男蟻は何も月を見ようと外を見ていたのではない。読み終えた四季の本を図書館に返すついでに、彼女(最年長の)がよく座っている椅子に座り、外の景色を見ていたのだ。周りに蟻たちはもちろんおらず、眼下に広がる自然の中から聞こえる、「今日は眠れそうかい」「いや、今日も眠れそうにないね」といった虫の声などを聞き流しながら、次男蟻は四季の本を触っていた。やはり気持ちいい触り心地と何にも邪魔されず耳に届く自然の音が心地よかった。
もう暗くて全く見えないが、あの黒の中に赤い花が隠れている。色彩を消し、姿を消したわけではない。確かにそこに存在する赤い花を誰かが風景に溶かすために黒く塗りつぶしたのだろう。この景色にあの赤は邪魔でしかない。
次男蟻は博識だが、やはりこの家の流れを受け継いでいるようで、どこか知識だけではない、感性的なものをよく考える。勿論その感性的な思考を他の蟻に話すことはないが、ひっそりと考えている。こうやって外の景色を見て、あの黒は陰になっているだけだとか、そういう理科的なことを考えることはしない。あくまで知識は思考の手助けで、知識が思考にとって代わることはない。それがあるとしたら、自分の許容を超える未知のものに出会ったときにそれをどうにか形容しようとするときだけだろう。なんとか近い存在を思い浮かべながら未知の存在をその外枠に強引に押し込むために。
「やあ」
後ろから突然声がして、次男蟻は持っていた本をその声のする方に放り投げてしまった。当てようと思ったのではない。体の回転に伴い遠心力で飛んで行ってしまったのだ。
「誰だい」
「俺だよ」
「姿が見えないんだ。もうちょっとこっちにおいでよ」
黒く塗りつぶされていた声の主は彼。長男蟻だった。
「こんな時間に何してるんだ」
大きな体をゆさゆさと揺らしながら月明りの及ぶ範囲までやってきた。その足元に目が行く。
「特に何も。君は?」
「ちょっと本でも読もうかなってな」