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臆病なシンデレラ~アラサー女子。私の彼氏は17歳~

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 早苗は凍り付いた。その手からネクタイの入った紙袋が落ちる。
 今、彼女は何と言った? 
「麗子、止めろ」
 尚吾が堪りかねて言うのも、早苗は聞いてはいなかった。
―シュジンガイツモオセワニナッテオリマス。ワタシハ、ショウゴノカナイデスノ。
 言葉だけは確かに耳に流れ込んでくるのに、意味をなさない。一つ一つの単語が無闇に宙を舞い、頭の中をぐるぐる回っている感じだ。
「済まない。実は二ヶ月前、結婚した」
 尚吾が苦い薬でも飲まされたような顔で言った。
「妻がキャリアウーマンで、今、重要な仕事を任されているんで、とりあえず別居婚という形を取っていてね。週末だけ、ここで過ごしている」
 早苗は耳を塞ぎたかった。そんな話は聞きたくない。
「どうして教えてくれなかったの?」
 二カ月前なら、話す機会は幾らでもあったはず。しかも、この二カ月、尚吾と早苗はデートを何度もしたし、キスも交わした。
 早苗の言葉に咎める響きを感じ取ったのか、彼は急に弁解じみた口調になった。
「だが、君にも責任がないとはいえない。半年前、俺がマンションに来た君を誘った時、君は断固として拒絶しただろう。現実には、あの夜、俺たちは終わっていたんだ」
「あら、可哀想。あなた、尚吾に抱かせてあげなかったの?」
 女が嘲るように言い、尚吾が肩を竦めた。
「バージンは一生に一度だから、大切にしたいんだってさ」
「まあ、道徳の教科書に載せたいわね。でも、気持ち悪い」
 女がまた声を上げて笑い、尚吾もつられるように口の端を上げた。
「どうせ君のような冴えない女は、武器にするのは身体くらいしかないんじゃないか。これからはせいぜい勉強を活かして、あまり自分を出し惜しみしないことだな」
 何という増上慢、他人を見下す台詞だろう。早苗は廊下に落ちた紙袋を拾い上げるなり、渾身の力を込め尚吾の頬を袋でひっぱたいた。
「良い加減にしてっ」
「くそぅ。こいつ」
 尚吾が整った顔を信じられないほど醜く歪めて、拳を振り上げる。意外なことに、彼を止めたのは女だった。
「止しなさいよ。あなたも悪かったの。上手いこといけば、あたしと結婚したのを内緒にしたまま、この子とも付き合おうと思ってたでしょ。つまりは、あたしとこの子、二股かけようとしてたのよね。だから、結婚したことを言わなかった、違う?」
 ?妻?にまんまとやり込められ、尚吾は二の句が継げないでいる。まさに、図星らしい。
 女が余裕の口調で言った。
「あなたもショックかもしれないけど、早い段階で判って良かったかもよ? これからは、こんな口先だけの悪に騙されないことね。まあ、今時、バージンが大切なんて看板をしょって歩いてたら、男は皆どん引きするでしょうけど」
 女は高らかな笑い声を響かせ、早苗の鼻先でドアが音を立てて閉まった。
 信じられない。
 早苗はがっくりと肩を落とし、エレベーターに乗り込んだ。チンと音がして、一階でエレベーターのドアが開く。
 マンションから出ると、ゴミ収拾場が眼に付いた。早苗は手にしていた紙袋を無造作にゴミ捨て場に放り投げた。
 後は見もせず、ひたすら歩道を歩く。運良く後方から走ってきた個人営業のタクシーを捉まえ、早苗は乗り込んだ。
 行く先だけを告げ、後部座席のシートに力なくもたれる。涙が後から後から溢れ落ちては頬をつたい落ちた。
 何が逆プロポーズなのか。とんだピエロも良いところではないか。
 恋人だと信じていた男が実は家庭持ちだったなんて。つまり、自分はこの世で最も嫌いな?不倫?をしていたのだ!
 しかも、尚吾が結婚したのは二カ月前で、その原因を作ったのは他ならぬ早苗自身だと、あの卑劣な男は言った。
 判っている。元々、尚吾はその程度の男だったのだ。仮に早苗と結婚していたとしても、あんな男はまた懲りもせずに誰かと不倫の関係を結ぶだろう。?不倫?というのはけして純愛ではない。むしろ、体質だと早苗は思っている。
 不倫体質とでもいえば良いのか。病気のようなものだ。何度でも違う相手と繰り返すし、一生止められない。あの女の言うように、取り返しのつかないことになる前に発覚して、むしろ良かった。
 そう思う傍ら、信じていた相手に裏切られた痛手は大きかった。
―だが、君にも責任がないとはいえない。半年前、俺がマンションに来た君を誘った時、君は断固として拒絶しただろう。現実には、あの夜、俺たちは終わっていたんだ。
 尚吾の台詞が耳奥でリフレインする。
 あの言い様では、早苗にすべての責任があると言っているようなものだ。真剣に受け止める価値もない、あれはただ卑怯な男がすべてを早苗一人に帰して自分はむしろ被害者だと言い繕っているにすぎないと判っているのに。
 それでも、あの夜、尚吾が求めてきた時、応じていれば、もしや最悪の事態は避けられたのかもしれない。早苗は、どうしてもその思考に陥りそうになるのだった。
 大丈夫、自分は何も間違ってない。
 そう言い聞かせながらも、大粒の涙は止まらない。
 タクシーの初老のドライバーは早苗が大泣きしていることなど、とうに気づいているに違いない。それでも、気づかないふりを通してくれたのがせめてもの救いだった。 
  
 見慣れたコーポラスを、早苗は涙に濡れた眼で見上げた。築三十五年の鉄筋コンクリートは五つほど部屋が並んでいる。早苗は左から三番目のドアの前に立った。?一〇三?と古ぼけた鉄扉に書かれた数字はもう殆ど消えかかっていた。
 一応、ブザーがあるにはあるが、壊れてしまって用をなさない代物だ。早苗はドアを開けると、転がり込むというよりは倒れ込むといった感じで狭い三和土にくずおれた。
 既に十一時を回っている。いつもなら義父はまだキャバクラの方で仕事をしている時間帯である。だが、今夜はF駅前のファミレスで香奈子や龍磨と一緒に食事をしたばかりだ。早苗が着いたときには三人共に食事は済ませていたものの、早苗はシーフードドリアを注文して食べていた。
 やはり、義父は家にいた。本当に真面目というか、仕事人間な男で、キャバクラに行くとき以外、義父が外出したのを見たことがない。
「早苗?」
 圭輔が立ち上がり、眼を見開いた。
 早苗は三和土にペタリと座り込み、まるで三つの龍磨みたいに泣いていた。
「どうした、一体、何があった?」
 圭輔は素早く立ち上がり、早苗の側に来た。膝をついて、早苗の顔をのぞき込み、涙でぐしゃぐしゃの顔を見て、息を呑んだ。
「何があったっていうんだ! 泣いてるだけじゃ判らない」
 そこで、早苗はしゃくりあげながら話した。取引先で知り合った男と一年前から交際していたこと。プロポーズしようと誕生日プレゼントを持ってH町のマンションまで行ったら、女性と彼が一緒で、実は彼は既婚者だったということ。
 訥々と話していく中に、圭輔の表情が変わった。
「畜生、人の娘を傷物にしやがって」
 圭輔が激高して、立ち上がった。
「ただじゃ済まさねえ」
 三間しかない部屋と申し訳程度の台所の狭い我が家だが、トイレと小さな風呂がついているだけ、まだマシだ。この部屋は元々、早苗の実父と母が新婚時代から暮らしていたもので、そこに圭輔が再婚時に引っ越してきたのである。