臆病なシンデレラ~アラサー女子。私の彼氏は17歳~
それはきっと、私が男性をというよりは人を見る目がなかったせいね。
少し自嘲気味に心で呟き、早苗は立ち上がった。やはり、ここにいるべきじゃない。
「尚吾さん、私、帰ります」
声を聞きつけ。尚吾がキッチンから戻ってきた。湯気の立つカップを二つ手にしている。
「つれないことばかり言うなって。ほら、コーヒー」
だが、早苗はコーヒーを受け取らず、首を振った。
「私とあなたはもう終わった。今更、何を話したとしても、元には戻らないと思うから」
尚吾が大仰な溜息をつき、カップをテーブルに乱暴に置いた拍子に、コーヒーがわずかにソーサーに零れた。
彼が手を伸ばし、早苗の細い手首を?む。
「ほら、外にいたから、こんなに手が冷えてる。俺が暖めてやるから」
尚吾の顔が近づいた。
「ベッドで暖めてやろうか、それとも、お風呂に一緒に入る? ―ん?」
膝裏に手を差し入れられたかと思うと、身体が宙に浮いた。抱き上げられたと思ったときには、もうベッドルームに運ばれていた。
尚吾はリビングを出ると、短い廊下を歩いた先のドアを長い足で蹴飛ばして開けた。
ドサリと、やや乱暴にベッドに投げ降ろされる。起き上がろうとしても突き飛ばされ、早苗の身体は再びベッドに転がった。
「何をするの!」
毅然として抗議したつもりなのに、声が震えた。
尚吾の眼が異様な熱を帯びて光っている。近づいてきた彼が獲物に飛びかかる肉食獣のように、早苗にのしかかった。
「いやっ」
早苗は泣きながら暴れた。
尚吾の顔が接近してくる。アルコールでも飲んだのか、酒の匂いがプンと鼻を突いた。
ペチャリと生暖かい唇が戦慄く唇に押しつけられ、気持ちの悪さに吐いてしまいそうだ。祐にキスされたときも半ば強引だったにも拘わらず、嫌悪感はなかった。むしろ恥ずかしい話だけれど、気持ち良いとさえ思ったのだ。
たかがキスがあんなにも性感を煽るものだと生まれて初めて知った。
それに、祐はここまで強引ではなかった。早苗が泣いて嫌がれば、ちゃんと途中で止めてくれた。
尚吾が荒々しく早苗の着ていたブラウスの前を引っ張ると、ボタンがはじけ飛んだ。開いた襟元から、清楚な白いブラが見えている。
「早苗は着痩せしてたんだな。胸がこんなに大きかったんだ」
尚吾の声が掠れている。その瞳は飢えた狼が捕らえた小動物を舌なめずりして見るようだ。
尚吾の分厚い唇が早苗の首筋に押し当てられた。唇は首筋から鎖骨、ブラから零れている白い乳房を這い回る。その度にツキリとかすかな痛みが走るのは、彼が咬み跡を付けているからに他ならない。
早苗は抵抗する気力も失せて、涙に曇った眼で天井を見上げていた。
その時、彼女の脳裏に何故か義父の笑顔が浮かんだ。
―自分を安売りするんじゃない。いつか早苗の良さを理解してくれる男が現れる。それまでは早苗がいちばん大切にしているものを守れ。
お義父さん。
早苗は心で大好きだった義父を呼んだ。
―大丈夫、お前は何も間違っちゃいない。
―誰よりもお前の幸せを願っている。幸せになるんだぞ。
最後まで?幸せになれ?と願い続けた義父の声がたった今、間際で聞こえたような気がした。
早苗は固く閉じていた瞼を開いた。と、天が味方をしたかのように、ナイトテーブルでスマホがなり出した。
「チッ、良いところに」
尚吾が舌打ちを聞かせ、スマホを手にして部屋を出ていった。
今だ! 早苗は急いで身を起こし、そろりと脚を床に降ろした。寝室を出ていった尚吾はどこにいったものか、姿が見えない。
耳を澄ますと、奥の浴室で水音がしている。お風呂の湯を入れているらしい。早苗はゾッと身の毛がよだった。
先刻、彼は一緒に入浴しようとか何とか言っていなかったか。もしや、このまま早苗を浴室に連れ込んで行為に及ぶつもりではと想像しただけで、恐怖で身体が震えて萎えそうだ。
しかし、気弱なことは言っていられなかった。これは神さまがくれた千載一度の逃げるチャンスなのだから。
早苗は足音を忍ばせ廊下に出た。そろそろと歩きリビングまで戻り、ソファに転がっていたバッグを拾い、そのまま玄関まで走った。
「早苗、お風呂、入ろうか」
尚吾の声が聞こえてくる。
「早苗、早苗?」
尚吾が早苗を捜す声が近づいてくる。
「くそっ、逃げやがったな。逃すか、あんな良い身体をした女だとは知らなかった。もっと早くに抱いておくんだった」
ぼやく声が聞こえる。早苗は恐ろしさに震えながら、パンプスはそのまま置き去りにして内側から玄関のロックを解除した。
「どこに行くんだ! お前は今夜はここにいるんだ」
形相を変えた男が飛びかかってくる! その直前、早苗は勢いよく裸足で外に飛び出し、扉は尚吾の鼻先で閉まった。
どこをどう走ったか判らない。立ち止まれば尚吾が追いかけてくるようで、早苗はずっと走り続けた。
気が付けば、マンションの近くの小さな公園のベンチに座っていた。
「うっく、ひっく」
嗚咽が止まらない。良い年をして子どもでもあるまいにと思うのに、涙は堰を切ったように溢れ出し、身体の震えはますます強くなるばかりだった。
リビングでジャケットは脱いでいて、取ってくる暇はなかったから、薄手のブラウス一枚きりだ。十二月の夜には寒すぎる。パンプスも置いてきたから、裸足だ。砂利道を歩いたりしたので、ストッキングは破けて、脚が痛い。
外灯が一本だけポツンと片隅に立ち、小さな公園を照らしている。さび付いて普段は殆ど使われることのない滑り台とブランコが寂しげに薄明かりに照らされていた。
ひとりぼっちでベンチに座り込んで夜の景色を眺めている中に、既視感を憶えた。
そう、あれは確か保育園のときだった。お父さんが出ていって、お母さんが働くようになって、幼稚園から保育園に変わったんだ。
次々に母親が迎えにきて、手を振って帰ってゆく園児たち。一人減り、二人減りした遊戯室での片隅で膝を抱えて外を眺めていた。
遊戯室では、若い保育士が紙芝居を読み聞かせていた。?シンデレラ?の話だ。
―シンデレラは十二時の鐘が鳴り始めたとたん、慌てて広間を出ました。止める王子を振り向きもせず、長いお城の階段を駆け下ります。
その時、あまり急いでいて、はいていたガラスの靴の片方が脱げてしまいました。シンデレラは靴を残したまま、お城を出たのです。お城を出た時、まさに十二時の鐘が鳴り終わり、魔法使いの魔法は解けて、シンデレラは元どおりの粗末な服に戻りました。
?シンデレラ?は哀しい話だけれど、最後はハッピーエンドになる。シンデレラが残したガラスの靴にぴったり合う脚を持つ女性を捜していた王子さまはついに、シンデレラを見つける。
―彼女はお城に迎えられ、王子さまといつまでも幸せに暮らしました。
可哀想な女の子が幸せになれるのは物語の中だけ。現実では、可哀想な女の子はいつまで経っても、幸せにはなれない。
―王子さまだと信じていた男は、本当は悪い悪魔のような男で、可哀想な女の子は悪魔に襲われそうになって慌てて逃げました。
女の子は逃げる途中で、靴を悪魔の家に置いてきてしまったのです。
早苗は笑った。涙を流しながら、笑った。
作品名:臆病なシンデレラ~アラサー女子。私の彼氏は17歳~ 作家名:東 めぐみ