臆病なシンデレラ~アラサー女子。私の彼氏は17歳~
地味で男関係など一切ないと、社内では思われている早苗である。もし彩花が?お昼寝メイト?のことを知れば、愕いて眼を回す―よりは信じないだろう。
せめて彩花くらい若ければと、また考えても仕方のないことを考えてしまう。いや、彩花の歳だとしても、十八歳の祐とは八歳も違うのだ。ましてや、三十一歳の女が十八歳と真剣交際も恋愛もできるはずがない。
もう心は先に彼氏の許へ飛んでいるのか、跳ねるように翔てゆく彩花の後ろ姿をしばらく見送った後、早苗もデスクの上を手早く片付け、通勤用のバッグを持って席を立った。
どこぞの五ツ星のホテルのフロントかと見紛うような立派なロビーを抜け、ガラスの回転ドアを出た時、外はもう、夜の色に覆われようとしていた。
「あ、携帯」
早苗はポケットから携帯を出し、マナーモードをオフにしようとした。着信を知らせる小さなランプが点滅している。二つ折り携帯を開くと、新着メールが五件と不在着信が二度来ていた。どうせダイレクトメールばかりだろうと次々と開いてゆく。
不在着信の方をチェックして、凍り付いた。かけてきたのは、またも尚吾だ。
愕然とした早苗の手の中で、唐突に携帯が鳴り出した。ソンナ・レレの歌う?Strong?は早苗の好きな歌で、携帯の着信音にもしている。映画の?シンデレラ?ディズニー実写版のエンディングで流れる歌だ。
正直なところ、映画の方はまだ見てないのだけれど、以前、?折れそうになる心を支えてくれる歌?という特集番組で、若手タレントがテレビで紹介していて知った。歌詞がとてもポジティブで、一度聞いただけで好きになった。
今でも何か辛いことがあった時、この歌をユーチューブで聞くと、落ち込んでいた心が浮上してくるような気がする。
迷った末、早苗は電話に出た。
「もしもし」
我ながら無愛想な声だと思ったが、相手のしたことを思えば当然だ。
早苗が出ることを想定していなかったのか、尚吾が沈黙する気配があった。
「用がないなら切るわ。もう、かけてこないで」
切ろうとした寸前、振り絞るような男の声が聞こえた。
「逢いたい、やっぱ、俺、お前じゃないと駄目なんだ」
その台詞は昼間に送りつけてきたメールと同じだった。
早苗は怒りのあまり叫びそうになるのを辛うじて抑えた。
「何を今更言ってるの。あなたには、美人でしっかり者の奥さんがいるでしょう。そういう泣き言は奥さんに言ってちょうだい」
「あいつは出ていったよ」
「―」
何も言わない早苗に焦れたのか、尚吾はかき口説くように言った。
「俺があいつとは合わないって言ったら、出ていった」
「何で、そんなこと」
拘わってはならないと思うのに、言葉の方が零れ落ちていた。
「お前の方が―早苗が良いって言ったんだ」
「また嘘ばっかり。その手には乗らないわよ」
「嘘じゃない。麗子と暮らしてみて、俺はお前の良さが初めて判ったんだ。素直で女らしくて、お前は俺に逆らったことなんてなかっただろう。麗子のような高飛車な女は金輪際ご免だ」
早苗は努めて冷静に言った。
「とにかく、あなたと奥さんの間のことは私には関係ないから。切るわね」
切る寸前、尚吾の叫びが聞こえた。
「俺はお前じゃないと駄目なんだっ」
切った携帯を握りしめながら、早苗はF駅へと向かった。いつものように下りの電車に乗り込む。通勤ラッシュで、車内はほぼ満員状態だ。早苗はドア前に立ち、窓に映った自分の顔をぼんやりと見つめた。
暮れなずむ町が車窓を流れてゆく。
―俺はお前じゃないと駄目なんだっ。
尚吾の悲痛な叫びが耳奥でリフレインする。早苗は鳴り止まない声を追い払うかのように首を振った。
「次はE駅、E駅」
車内アナウンスが聞こえてきても、早苗は降りなかった。結局、彼女が降りたのは二つ先のH駅だった。まるで見えない糸にたぐり寄せられるかのように、早苗は歩いていた。
何度か通った道を歩いていく。駅から続く横断歩道を渡れば、尚吾の住む高層マンションが冬の夜空を貫くようにそびえ立っていた。
エントランス前で白い息を吐きながら、早苗は闇の中で鈍く光るマンションを見上げた。小さく首を振る。
―私は一体、何をしようとしていたの?
愚かの極みとしか言いようがなかった。
尚吾のしたことを考えてみるが良い。身体を求めて応じなかった早苗に辟易して、麗子を選んだというのは仕方ない。だとしても、他の女と結婚してもなお、隠して早苗と付き合おうとしていたのは許し難い所業であった。あまつえ、彼と麗子からは別れる間際にも様々な侮蔑の言葉を投げつけられたのだ。
早苗がマンションに背を向けようとしたそのときだった。
「早苗っ」
聞き慣れた声が追いかけてきた。思わず振り向いてしまえば、その先には尚吾がいた。
「もしかしたら来てくれるんじゃないかと思って、ずっとマンションの前で待っていた」
いきなり強く抱きしめられ、早苗は身を強ばらせた。ショックで身動きできない状態が去り、早苗は抗った。
「何をするの! 放して」
「中に入ろう。外は寒いから」
尚吾は早苗を強引にマンションの中に引っ張り込んだ。
立派な玄関はしんと静まり、人の気配すらしない。これで本当にたくさんの人がここで暮らしているのかと疑いたくなるほどに生活感というものがない。
中に入って落ち着いたのか、尚吾が手を放してくれた。
「とにかく話を聞いてくれないか」
穏やかに言われ、早苗は躊躇った。
「話なら、電話で聞いたわ」
「他にも色々と君に話したいことがある。例えば、俺たちのこれからとか」
「俺たちなんて言わないで。私たち、もう別れたのよ。未来なんて、どこにもないし、私も欲しいとは思ってない」
麗子と共にいるのを見た夜、尚吾とは完全に終わったのだ。早苗に彼とやり直す気など毛頭ない。
「早苗、誰しも過ちはあると思わないか? 俺が君のすばらしさを理解できなかったとしても、一度くらいは許されるべきだろう?」
尚吾は言葉巧みに早苗を追い詰める。早苗が言い惑っているのを良いことに、彼は早苗の手を握った。
「もし俺の話を聞いてもなお、早苗が俺を許せないというなら、俺は男らしく潔く引き下がるから」
その言葉にほだされ、早苗は尚吾と共にエレベーターに乗った。尚吾が十二階を押す。何階かを示す数字が点滅しながら、ガラスのは緩やかに上昇を始めた。チンと音がして、最上階に到着した。尚吾に導かれ、毛足の長い絨毯を敷き詰めた廊下を歩く。
彼はオートロックを外し、自分より先に早苗を部屋に押し込んだ。まるで逃げられるのを恐れているかのようだが、混乱している早苗は気づかない。
「寒かっただろう。今、温かいコーヒーでも淹れるよ」
何度か見たことのある部屋はリビングなのか、紅いカーペットが敷き詰められた広い部屋には縦長のガラステーブルが置かれ、その前には高価そうなゴブラン織りの長いソファ、ソファとテーブルの向こうに巨大なテレビが設置されている。
いかにも尚吾という男をよく表している見栄っ張りが住みそうな部屋だ。
今なら判る。見かけだけゴージャスで中身のない薄っぺらな男を自分は何故、本気で好きになったのだろう?
作品名:臆病なシンデレラ~アラサー女子。私の彼氏は17歳~ 作家名:東 めぐみ