セカンダリー・プレイス
第一章 神社
――私の人生って一体何なんだろう?
日立なつみが、そんなことを感じるようになってどれくらいの日が続いているのだろう? 大学を卒業して志望の会社に入社できた時までは、自分でも有頂天に感じられるほど、毎日が楽しいはずだった。
毎日が楽しいというのは、決して平凡な毎日を過ごしていたのでは感じることはできない。その時のなつみは、
――その日が終わってから、昨日よりも今日の方がよかった――
と感じることができれば、毎日が楽しいと思えるのだと信じ込んでいた。毎日のように、昨日よりも楽しかったと思えるようにすることだけを目指していたといっても過言ではないだろう。
新入社員の時、あれだけ覚えることが多かったにも関わらず、この思いだけは持ち続けていた。いや、持ち続けることができたから、覚えなければいけないことも、漏らさずに覚えていることができたのかも知れない。
――私は中途半端な気持ちだと、何もできないのかも知れないわ――
学生時代から感じていたことだったが、就職して新入社員の時には特にこの思いが強かった。ピークだったといってもいいくらいだ。
新入社員というのは、覚えることもたくさんあったが、捨てなければいけないものもたくさんあった。それは、学生時代の頃の甘えであり、会社では学生時代の甘えは通用しなかった。
しかし、考えてみれば誰もが大人なのである。紳士であり淑女に見えた。
――こちらが誠意を持って接すれば、相手も誠意を持って返してくれる――
この思いが次第になつみを包むようになってきた。
なつみの考えに間違いはないのだが、どこの世界にも例外となる人はいるものだ。被害妄想や嫉妬の固まりのような人も中にはいた。なつみも、自分のまわりの人が全員、紳士であり、淑女だとは思っていなかったが、比較的なつみのまわりに例外となる人がいなかったのも事実だった。
会社には人事異動もあれば、新卒だけではない新入社員も入ってくる。その中に例外に当たる人もいたりした。
――人が百人いれば、その性格は百通りになるんだ――
という当たり前のことをなつみは今さらながらに思い出した。
今まで頭の中で分かっていても実感が湧かなかったのは、百通りの中に、例外と言えるほとの人がいなかったというだけで、ある意味、
「幸運だっただけ」
と言えるのではないだろうか。
例外と言える人が少しずつ増えてはきていたが、自分が悩みに落ち込んでしまうほどのことは起こるはずはないと思っていた。
頭の中に、
――しょせん、他人は他人――
という思いがあった。その思いは決して投げやりな気持ちからではない。自分の中での取捨選択がキチンとできていれば、それでいいだけのことだった。実際に人間付き合いの上での「優先順位」に狂いが生じたことはなかった。その「優先順位」は次第に、自分の中での段落分けに繋がっていた。
段落分けという言い方を敢えてしたのは、ランク分けにしてしまうと、相手のことだけに終始してしまいそうだが、ここで「段落分け」という言葉を使うことで、
――相手が自分にどのような影響を及ぼすかということを踏まえた上での考え――
として自分に納得させることができるからだった。
段落分けをするメリットは、自分への影響を考えて深く相手を見ることができることに尽きるが、デメリットとしては、深く入り込み過ぎたがゆえに、相手に感情移入してしまい、相手から離れなければいけない状況に陥った時、タイミングよく離れることができるかどうかが問題だからだ。
なつみにとって、
――離れなければいけない相手――
は、ずっと現れなかった。入社して数年というもの、何事もなく過ごしてきた。
さすがに順風満帆というわけにはいかなかったが、問題がなかったことも事実だった。それが自分の役得だと思っていたのも、思い込みというのが怖いということの証拠ではなかっただろうか。
――余計なことを考えなくてよかった時代――
として、今となってみれば、つい最近のことであっても、ずっと昔のように感じてしまうのも、おかしなものであったのだ。
なつみは、自分が寂しいと思う時期を入社してから感じることはなかった。
入社してすぐに、
――私は五月病に罹るのではないだろうか?
という危惧があった。五月病というのは、どんなに回避しようとしても、罹ってしまうものだと思っていたからだ。誰にでも罹る可能性があり、仕事に燃えていたり、学生時代の甘えは消したと思っていても、そんな本人の気持ちをあざ笑うかのように襲ってくるのが五月病だと思っていた。
五月病を恐れるというのは、怖いという思いよりも不安になることが怖かった。その理由は、
――恐怖であれば、ほとぼりが冷めると消えていくものだが、不安というものは、一度味わってしまうと、なかなか抜けることはない――
と感じたからだった。
不安というものは、感じるというよりも、身についてしまうことであり、その原因が曖昧であれば、余計になかなか抜けないものである。特に五月病なる、
――不特定多数の人間に、襲ってくるもの――
としては、防ぎようがないと思っていた。それは、子供の頃に罹る伝染病の「はしか」のようなものであり、しかも、決定的なワクチンや治療法もなく、後遺症が残ってしまうのと同じではないだろうか。その思いが恐怖から不安げと駆り立てる。そういう意味では、五月病に対しての予備知識など、最初からなかった方がよかったという思いに駆られたとしても、仕方のないことだろう。
確かに、
――これが五月病なのか?
と思えるような不安に駆られた時期があった。しかし、そこに恐怖心が襲ってくるわけではなく、気が付けばそんな気持ちも覚えなければ多いことから、意識としては実に薄いものだった。
五月病に対しての不安が取り越し苦労だと感じるまでにしばらく掛かった。
――いや、まだまだ油断はできないわ――
抜けてしまったと思って安心することで気が緩んでしまった瞬間に襲ってこられては、対処のしようがないと思ったからで、もし、油断が招いた五月病であれば、きっと自分に対して自信喪失も一緒に招くだろうと思っている。
――しまった――
と感じても後の祭りである。この時に襲ってくる後悔は、普段感じる後悔とはレベルが違う。
――あれだけ精神的に用意周到で待ち構えていたはずなのに、その間隙を縫うかのように潜入されてしまっては、後悔などという言葉でいくら言い表されても、自信喪失が招く自己嫌悪を拭い去ることなど出来はしない――
と思っていたのだ。
そんな思いが功を奏したのだろうか、五月病に襲われるという思いは、取り越し苦労に終わってくれたのだった。
肩透かしを食らったという思いは確かにあった。しかし、実際に五月病に罹ることはなかったのだから、取り越し苦労だったことは明白だった。後になって人に聞いてみると、
「五月病というのは、罹る人と罹らない人がいるみたいよ」
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次