水のようなあなた
「怒りました?」
そんなことないと分かり切っているような聞き方だった。それでいて、不思議と腹が立たない。むしろ、余りにも的を射た発言に感心しきりで、反応が二つも三つも遅れた節があった。
人を見た目で判断してはいけないと良く言われるが、それでもまさかこの青年の見た目からここまで踏み込んだ分析が出てくるとは思いもよらなかった。
「まさか。思い当たる部分が多過ぎて、怒りようがないよ。それに、随分前にも、ほとんど同じことを言ってきた人がいたから。今の君の発言よりも手酷い罵り言葉だったけどね」
確か、『あんたの優しさって、そこらの女子が脊髄反射で連呼してる可愛いと同じくらいうっすくて中身がないのよね』だったか。
言われた時はこの三倍程の長さの駄目出しの嵐で、正直大部分は今はもうよく思い出せない。だが、この部分の罵倒だけは、不思議とその後の人生でも折に付け思い出された。特に、年頃になって「優しい人だから」という理由で付き合いを申しこまれる時などは、何度となくこの言葉が頭の中を流れたものだ。
「げぇ、こっわ。彼女か誰かですか?」
「一応、姉。義理の」
「お兄さんのお兄さんの嫁さん? なんていうか随分遠慮ない人なんすね、俺が言うことじゃないですけど」
言葉の選択に悩んだ挙句に選んだ肩書きは、やはり辞書の一番目に載っている意味通りに受け取られてしまう。一呼吸分迷って、貴臣は緩く首を左右に降って、否定の意を表した。
「兄はいないんだ。俺、里子だから。引き取られた家の長女さん」
ついでに、今大学生の弟もいるよ。こっちは、義姉とちゃんと血が繋がってるんだけどね。
返答に固まってしまった光希と空気に居た堪れなくなり、慣れない軽口でどうにか誤魔化そうとしたが、追撃になってしまったような気がしなくもない。
聞かれない限りは自分の身の上を吹聴するような真似はしない貴臣だが、話題がそちらに及べば、基本的に事実をそのまま伝えることにあまり抵抗はなかった。
それは、正直が美徳だから、なんて崇高な精神などではなく、どうせこちらから言わなくたって、何処からか必ず秘め事はばれるのを身を持って体験していたからだ。
隠されていたことを暴く人の熱量としつこさは、正直見ていて気分のいいものではないし、付き合わされればそれだけ疲れもする。だったら最初から、私にはこういう瑕疵がありますよ、と表明してしまった方が楽だった。その後の面倒さは面倒さで残りはするが。
「あー、その、すんません。考えなしに突っ込んだこと聞いちゃいました」
「こっちこそ、気の利いた話の反らし方とか適当に誤魔化す器用さがなくて、申し訳ない。あとになる方が面倒だから、いつも早い段階で口にしてしまうんだよね。自分としては、特段そこまでデリケートな話題だと思ってないし」
「お姉さんもそんな感じなんですか?」
「そんな感じだね。あの人自身の結婚の時なんて、挨拶に来た向こうの親族が『全然似てませんねぇ』って事情知らないで言ってきたのに対して『はあ、まあそりゃ、製造元が違いますから』って真顔で返して空気凍らせてたからね」
「ええ、マジ怖いんですけどお姉さん。え、ていうかいくつ上なんですか」
「7つ上だったかな。怖い人だよ。怖いから、怒られるとすぐ謝っちゃうんだけど、それやると今度は、なんで怒られてんのか分かって謝ってんのかって更に怒られちゃうんだよね。敵わないよ」
「それと同じ理由で俺も昔こっぴどく怒られました。なんつーか、女の人には下手に逆らわない方が無難ですね」
ぶるるっと震えて、首を竦める。怒った人は親しい人だったのだろうか。怖い怖いと嘯きながらも、空を見上げた瞳は柔らかく綻んだ色をしていた。
何てことないように続けられた会話に、知らず張っていた肩の力を抜く。光希は実に、自然体だった。謝罪こそあれ、過剰な同情も、侮蔑もない。傷がそこにあるのを分かった上で、目を反らすでも、傷口を抉るように無遠慮に触れるでもない。ただ、血の滲む傷口をこちらの一部分として認めて、相対している。
今時珍しい話ではないのかもしれないが、それでもその絶妙な感心と無関心のバランスのとり方に救われる思いがした。
「怖いは怖いけど、うん、すっごく怖いけど、それ以上に、世話にもなってるんだけどね」
「怖さが飽和しそうなんですけど。怖い以外なんかないんですか、お姉さんのイメージ」
「うーん、一番近いのは……雪女かなぁ」
「え、まったく意味が分からない」
首を傾げる光希を横目に、貴臣は山で保護された後の日々を思い返す。
孤児になった貴臣の施設生活は、当初の想像に反して、一月程の短さで終わりを迎えた。新生活の幕開けを告げに来たのは、山で貴臣を保護した夫婦だった。
両眼に涙を浮かべ、いやに熱のこもった声で施設の職員と話しあっていたのは主に女性の方で、新居に辿り着くまで新しい男性の扶養者と交わした言葉はほとんど挨拶と自己紹介くらいだったと記憶している。
タカくんタカ君と、やけに甘ったるい呼び名で貴臣の頭や顔に触れ、その度に感極まって涙を流す義母は幼心にも少し恐ろしく思えたものだ。実の母のことはあまり覚えていないが、ある日いきなり帰ってこなくなるような人種と同種の危うさを感じたものだ。
新居の扉を開けた義母は、そのままのテンションの高さで、貴臣よりも七つ年上の彼らの長子を紹介した。それが、現実でも想像の中でも辛辣な義姉・亜希子だ。