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水のようなあなた

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『あんた、怒らないの?』

 新しい家に入ってから数カ月、挨拶以外の会話らしい会話を交わしたことがなかった亜希子がいきなりそんな言葉を投げかけてきた。
 両親が何かの用事で帰りが遅く、夕飯を亜希子が作っていた夕暮れのリビングでのことだ。手伝おうにも人の家の台所というのは居心地悪く、言われるがまま食器のセッティングをした後は所在なく立ちすくんでいた。
 オレンジ色の夕日が窓から差し込んで、白いキッチン台を染めていた。見上げた横顔は形のよい頭の向こう側から夕日が指しているせいで、こちら側からはよく見えなかった。

『怒る、って』
『タカ君なんて呼ばれて、好きでもない服押し付けられて、甘いの好きだったでしょって菓子の好みまで決めつけられて、腹立たないの。今夜みたいにカレー作る時だって、あの人いたら、あんたの分に勝手にコーン入れたわよ』

 7歳児の脳の処理スピードでは、とても追い付けない量を一息に言い切る。親族の間でも才女と名高かった亜希子は、いつも静かに部屋にこもっているイメージだった。変に口を開いて不興を買うのを恐れ、貴臣はできるだけ彼女の前では静かに、呼吸の音すら小さくしようと腐心していたのだ。
 その彼女の口から、飛び出す言葉の数々と言ったら、それまでの義姉像が音を立てて崩していくような苛烈さだった。家庭の象徴のようなカレーの香りが、やけにおかしかった。

『なんで怒らないの』
『でも、だって、お、ぼくは』

 まだ慣れていなかった一人称の変更にまごつく貴臣に、我慢の限界が来たのか、亜希子は音も高く菜箸をシンクに放り投げた。

『あんたは、タカ君じゃない、貴臣でしょ。あの子の皮を被って生きていくつもりなら、止めなさい。不愉快だから』

 台所の空気が凍りつく。そしてそんな時に限って、タイミング悪く義理の両親が帰ってきてしまうのだ。その後は、もう今思い出しても随分と酷いものだったとげんなりしてしまう。
 空気の冷たさにあれこれ探りを入れてくる義母に、貴臣は言葉少なく、亜希子は取りつく島もなく誤魔化していた。が、そのやり取りも義母が貴臣の皿に何も言わずに冷蔵庫を開けたところでぶち壊しになった。

『もう、亜希子ったらタカ君のカレーにはこれ入れないとダメでしょ。ねぇ、タカ君』

 べたべたした声で微笑んだ義母の手から、小皿が落ちる。恐ろしい音で割れた皿の欠片が足元まで飛んできたが、貴臣は息をするのも忘れて眼の前の、亜希子の横顔を見つめていた。

『いい加減にしてよ。この子はあなたの子供のタカ君じゃない。タカはタカで、もう何処にもいない。生まれ変わりなんて都合のいい言葉並べたてて、都合のいいように混同して考えないで。この子とタカは他人でしょ。拾ってきた子どもに付けこんで、役割押し付けるなんて馬鹿みたいなママゴトしないで』

 義母の手から皿を叩き落とした亜希子の言葉の辛辣さは、その意味を理解できてない貴臣でさえ震えあがるものがあった。
 最初こそ状況についていけず呆然としていた義母は、刺された言葉の痛みがようやっと脳に届くと、目を吊り上げ、両手で髪を掻き毟って酷く取り乱した。

『この子は! どうしてそんな酷いことを言うのっ!』
『酷いこと?』

 鸚鵡返しに言葉を繰り返した亜希子の表情は、筆舌に尽くしがたいものがあった。冷めた視線はこの上ない侮蔑が込められているはずなのに、瞬きをするとそこに仄かに憐みや愛情の欠片が閃いては消えていく。ぞっとするほど冷たいのに、痛い程熱い視線だった。
 そこまでのことを簡単な家族喧嘩という体で光希に説明する。その上で、先程のあまりに説明の用をなさなかった言葉を補足した。

「雪女って、約束を破った男を殺そうとするけど、そうしないで、我が子を託して消えていくだろ。たぶんその時の雪女は、あの時の義姉みたいな顔してたんだろうなって、八雲を読んだ時に頭の中のイメージが固まっちゃってね」
「……変わってますね」
「そうかな? 君はサトリみたいだなって思うよ」
「これ、お礼言うべき所ですか? ていうか、それどっち道、恐いって言ってんのとあんま変わらないような」

 結局、氷室よりも冷え切った室内の空気は、義父が亜希子を別室に放り込むことで終了した。食器の音だけが響く食卓は、葬式の方がはるかにマシだと思える重さで、あれ以来貴臣はカレーがあまり好きではなくなった。
 義母が寝込んでから、リビングの貴臣を書斎に呼んだ義父は、とても静かに彼に詫びたのだった。それが亜希子の言葉を指しているのか、それとも、これまでの義母の暴走を指しているのかは分からなかった

『馬鹿面。でもまあ、そっちの顔の方がまだ見れた顔かもね』

 寝る直前、隣の部屋に亜希子が戻った音を聞きつけ、覚悟を決めて扉をノックすると、出てきた彼女の頬はそれは見事に赤くはれていた。その癖、眼だけは爛々と光っていて、呆ける貴臣に鼻を鳴らして顎を上げ、意地悪く笑ったのだった。
作品名:水のようなあなた 作家名:はっさく