水のようなあなた
そう言えば、相手の名前を聞いておいて、自分は名乗っていなかったと何度目かの光希からの呼びかけで気付く。このタイミングで聞くのは、なんだかとても今更感がある。おまけに、父親と登った山に来ているせいで、大人になってからは麻痺していた感覚が蘇っていて、素直に名乗るには喉が無様に震えてしまいそうだった。
久し振りの感覚だ。小学校から高校まで、成長期を過ごした学び舎で度々感じていた居心地の悪さと誰に向けていいかも分からない罪悪感が胸の内で嵩を増していく。
新学期の最初の授業で必ずやらされた自己紹介の時間を思い出す。捨てられた名前を名乗るべきか、新しく与えられた方を名乗るべきか。どちらを名乗った所で、きっちりとはまりはしない。ぺらぺらの紙に書いて胸に貼り付けた所で、それはいとも簡単に剥がれ落ちていくのだ。
「別に気にしてないんで、大丈夫ですよ」
頂上から見える湖の綺麗さを熱弁していた光希が、唐突にそんな言葉でそれまでの話題を打ち切った。休みなく動き回る口は、泳ぐのをやめると死んでしまう回遊魚のようだ。
思考の大半が別方向に向かっていた貴臣は、上の空だった自身の返事にも気付かず、ぽかんと口を開けた。
「名前、気にしてるみたいだから。見ず知らずの人間に本名名乗るの、気ぃ使うでしょ。でもお兄さんすごい顔してるし、そこまで気にするなら、ツイッターとかのハンドルネームとかでも俺、別に気にしないですけど」
そんなに顔に出ていたのか。口を開けたままのアホ面を、貴臣は片手で覆った。重い溜め息を吐き出す。年下に気を使われるのが、ここまで居た堪れないこととは思いもよらなかった。
「……ツイッターとかはやってないから、自分の名前以外名乗るモノがないんだ」
「珍しい、って言ってもお兄さんやらなさそうか。それっぽいっちゃそれっぽいか」
俺はねぇ、本アカと趣味アカと同高アカと、と指折り数えていく光希の台詞の半分も意味が分からない。オナコウアカってなんだ。ジェネレーションギャップというよりも文化圏の違う外国人を相手しているような心持になっているのを察したのか、これまた絶妙なタイミングで「あ、同高アカっていうのは、同じ高校のやつらと繋がってるアカウントってことね」と解説が入る。
「あまり自分では表彰豊かな方ではないと思ってるんだけど。そんなに顔に出てたかな」
「お兄さんの自己認識それで間違ってないと思いますよ。実際、あんまり顔に出てないから。ただ、俺が『お兄さん』っていう度に、ちょっとだけ目元がぴくってなるし、眇めたりする。考え事してる時はこっち全然見ないぽかったから。あとはテキトーに想像してカマかけただけ」
「眼は口ほどに、って本当だね」
「その返答もどうなん、お兄さん」
正解を導き出せたことが嬉しかったのか、得意げに光希は鼻を鳴らす。指で宙に何やら図らしきものを書きこんでは、名探偵の気分に浸っているようだ。
軽い口調に反して、他者の観察が細やかな性質らしい。無愛想、何を考えてるか分からない、と言われ続けてきた己のこれまでを振り返り、貴臣は一つこの不思議な青年に問いたくなって、自分から話題の舵を乱暴に切った。
「趣味がランニングなんだ」
「へー? それは、また」
「らしい、趣味?」
先取りして、言葉を継ぐ。喋りながらでも存外器用に登れるもので、下りてきた時よりも幾分か早く斜面から元の山道へと辿りついていた。このまま県道まで行きましょう。下山ルートへ歩きだした貴臣に、一瞬光希は山の上を振り仰いだ。
怪我もしていないからそこまで付き合わなくても、と言いたいのだろうが、元々頂上に拘っている訳でも無い。それにいくら今問題なさそうでも、一人で下山中に倒れてそのままなんて目覚めが悪過ぎる。無言のまま視線でやり取りを済ませると、二人分の足音が山道を騒がせた。
中断していた会話に戻った光希は、先程の言葉の意味を考え直し始めたようだった。足元の砂利をいくつかまとめて蹴り飛ばす。静まり返った山では、地面を跳ねるささやかな音も痛い位響いた。反対側の藪に消えていくと、元からそんな石などなかったかのような気さえする。
「ランニングの話は、多分お兄さんストイックそうに見えるから、そういう意味で似合うって言ってるんじゃないかなぁ。その様子で、編み物とか観劇ってのはなさそうだし」
「天野くん的には別の考えがありそうな話し方だね」
「そうっすねぇ。俺的には、外と中とか関係なく、お兄さんは生産性のあることには興味なさそうに見えるんで。それにランニングなら、他人と関わらずに一人でできて、かつ自分で決めたコースを同じように走ってれば機械的に終わるでしょ。そこらへんが、お兄さんらしいから、適当な趣味かなって思っただけ」
そんな所でしょ。にこやかに言い切って、貴臣を覗き込む。ちょうど頭上から注ぐ日に照らされて、瞳の奥の奥まで透けてしまいそうなくらい明るく光ってみえた。昔話に聞いた、こちらの心をすべて見通す妖怪の存在を思い出す。
「ところで、新しい趣味にチャレンジするための相談の前振りだったりします、これ?」
「いや、そんな大層なものじゃなくて申し訳ない。ただ、あんまりにも色々な人に言われるから、どう見えてるんだろうと思って。君、そういうの得意そうだったから」
「てっきり、好きな子にランニングが似合う男はちょっとなんて酷い振られ方したのかと思いましたよ」
「彼女には、あなたとの家庭が想像できないって振られたけどね。ランニングで振られた方が、後々笑い話にできるだけマシな気がする」
「やだぁ、社会人の別れ方ってそんな重いの。で、お兄さんは傷心で山に登りに来たの? ロープまで持って、準備万端?」
「首を括るにはちょっと長すぎるかな、これは」
カモネギ状態で散在したスポーツショップでのやり取りを説明すれば、眼に浮かぶようだと光希は手を打って笑う。
「まあそんなとこですよね、彼女に振られたからって思いきるようなタイプには見えないし。ていうか、あんまショックも受けてないんでしょ、お兄さん」
「そう見えるかな」
「うん、めっちゃ見える。お兄さんって、者に対しても人に対しても興味感心薄そうだから。自分含めてね。ていうか、多分、自分に対してが一番興味なさそう。でも冷たい人間かって言うとそうでもなくて、どっちかというとお人好し。困ってる人は助けるタイプ。でもそれって、他者に対する興味とか優しさに起因してるって言うより、自分に対する損得勘定に感心がないからなんじゃないかなぁ。だから女の子は、優しいけど私のことちゃんと見てくれてない!って怒っちゃうんじゃない?」
思わぬ量で返ってきた洞察に、貴臣の思考が一瞬占領される。何と言ったものか、どういう顔をした方がいいのか判別しかねて、無駄に瞬きを繰り返してしまった。言われた内容が漸く飲み込めた頃、あまりに反応が鈍いのに居た堪れなくなったのか、苦笑混じりに光希が首を傾げた。