水のようなあなた
「一時はどうなることかと思ったぁ! こんな山奥の中であんな間抜けな格好で死ぬとか勘弁してほしかったから、ほんと助かりました、ありがとう!」
「いや、大したことはしてないから、気にしないください」
「いやいや、大したことでしょ! 観光シーズンでもないから、ほんと半分諦めてたんですよ。おまけに、見つけにくい所にいたから、余計に心細かったの何の」
大仰に身をよじり、青年――天野光希は貴臣の両手を掴み上下に大きく振った。救助された興奮のせいなのか元々なのか、地味に声がでかい。この場を越えて、斜面を駆けあがって山の上の方まで響いていきそうなくらいだ。
「写真撮るのに夢中になって、斜面から落ちた時は“あ、俺死んだ”って思ったんですけど、存外どうにかなるもんだなぁ」
「まさか、そのまま穴にはまったんですか?」
「いえ、生きてる!やった!ってテンション高く走り出した所で、落ち葉に隠れて見えなかった淵に足が滑ってそのまま、って、ああ! 酷っ、そんな笑わなくても!」
のほほんとした青年から語られた状況が、あまりにも自然と頭の中に思い浮かべることができ、思わず貴臣は顔を背けて吹き出してしまった。
あちこちに落ち葉や小枝を引っかけたまま、光希青年は露骨にむくれてみせる。それでも、自分の姿を改めて見下ろすと、自分でも可笑しくなったのか気の抜けた声を上げて眉間の皺を解いた。
ふわふわの茶の髪の下の顔は、垂れ目に困り眉といういかにも害意から程遠そうな顔つきだ。来年の3月で大学卒業だという話だったが、髪が黒いままなら高校生にでも見えただろう。
「すみません、なんていうかあまりにも見事な展開で。でも、怪我なくて良かったですね。……ないですよね?」
「はぁ、多分。斜面の小石であちこちぶつかって痛いは痛いけど、歩けるんで」
「今は何ともなくても、今後どうなるか分かりませんし、このまま下山して、病院行った方がいいですよ」
斜面から下を見下ろすが、緩やかな坂が続くばかりで、麓に通じているのかは判じ難かった。山から下りていけば下に着くのは道理だが、土地勘のない貴臣には山のどの辺りにいるのはうっすら分かっても、山道から離れた道なき道を進むのは自殺行為だ。
「天野くんは地元の人? ここから下に降りるのは、可能ですかね」
「いやぁ、止めた方がいいですよ。俺、実家に戻ってきてるだけで、ここに登るのも随分久しぶりなんで、下手に歩き回るとこんな低山でも遭難すると思います」
なら、下りてきた斜面を登り直して、来た道を戻らざるを得ない。県道まで下りればタクシーくらいは捕まるだろう。
立ち姿の光希を見ると、確かに怪我らしい怪我はない。登る分には支障はなさそうだが、上に着いて歩けなくなった場合、救急に連絡せねばならないだろうか。
「?」
調べるついでに時刻を確認しようとスマホを取り出し、貴臣は首を傾げた。いくらホームボタンを押しても、画面は一向に明るくならないのだ。家を出る直前まで充電をしていた。駐車場の休憩所でスタート時刻を見た時も、残りは90パーセントを切っていなかったはず。
「どうしました?」
「いえ、携帯が」
言って、画面を見せる。眼を丸くした光希が、同じように肩から斜めにかけていたバックからスマホを取り出すも、反応は貴臣と同じだ。
「おっかしいな、充電まだ十分あったはずなのに」
「事故の時にダメになったとか」
「一応衝撃に強いタイプなんですけど、落ちた距離も距離ですしね。ま、どっちにしろ山から下りないとまともに電波はいんないでしょうし、とりあえず、登るだけ登っちゃいますか」
「登れますか? 足がつらいようなら、ロープ持ってるんで、木と木の間にそれを張って手すり代わりとか」
「心配し過ぎ! こんぐらいの角度なら、大丈夫っすよ。ていうか、こんな大したガレ場も鎖場もないような山にロープまで持ってくるって、お兄さん、登る山の選択ミスってません?」
言うや否や、光希は貴臣を置いて斜面を登り始めた。ざかざかと落ち葉をかき分ける音に反して、地面を探る様に擦る足運びだ。経験者の事故の教訓を真似しながら、貴臣も光希の隣に並んで上を目指す。