水のようなあなた
父と山登りに来たのはツツジの見頃から少し早い春だった。それでも道々に群生するツツジの蕾は色づいていて、もうすぐにでもぽんっと音を立てて開きそうな程だった。それが幼い頃の貴臣には不気味に思えてならなかった。
花弁が綻んだ後の赤い花なら、いくらでも見たことはある。しかし山ツツジは、蕾の段階で花弁の外側まで真っ赤に染まるのだ。左右を囲む低木のあちこちに真っ赤な塊が乗っている。それが異様な光景に思えて、どうして父はこんな不気味な場所に連れてきたのだろうかと怯えていた。
背後から、父の気配がついてくる。むき出しの地面は大人の体重を受ける度に、砂利が鳴く。その音が背後から一定の距離でしていてくれるから、貴臣は泣きだしそうになるのをどうにか堪えて山道を進んでいけたのだ。
どれだけ進んだ頃だろうか。ふと、父の気配が遠のいたような気がして、貴臣は足を止めた。足音が、聞こえなくなっていたのだ。さっと、顔から血の気が失せる。小さな声で、背後に向かって呼びかけてみる。反応はない。さっきまで火照った頬を冷やしてくれていた初春の風も、ぴたりとやみ、重たい沈黙ばかりが背後で降り積もっている。
咄嗟に振り返ろうとして、二つ目の約束事が頭を掠めて踏みとどまった。この状況になるのを見越しての条件だったのだろうか。でも、理由は? 何処に行ってしまったのか。考えている内に、先程よりも遠くから足音が聞こえた。
何か理由があって、足を止めていただけか。安堵したのもつかの間、違和感を覚える。どうにも、足音が先程までより重いように感じるのだ。一歩、一歩踏み出す度に鳴る砂利の軋みが父のそれよりも大きく、長い。まるで重い体重を引き摺って歩いているかのようだ。
『……父さん?』
怪我でもしたのだろうか。不安も込めた呼びかけに答えはない。振り返りたい衝動が強くなる。しかし、無言のままで止まらない足音に、治まったはずの動悸が激しくなっていく。
もう一度、先程よりも大きな声で呼びかける。流石に、この距離と声量なら聞こえないはずはない。それでも、返ってくるのは足音ばかりだった。重い足音のスピードは、早くはない。それでも、確実に、止まることなく距離を詰めてくる。
これは、この後ろに迫る気配は本当に父なのだろうか。
閃いた疑問が、一気に全身の肌を粟立てた。かちかちと歯の根が合わず、呼吸が乱れる。
視界の端のツツジの蕾は血を吸ったように真っ赤で、それが山肌一面を飾っている。どれもこれも、絵具の赤をそのまま吸い込んだような色味だ。
当時は紅葉と同じ赤の植物を、どうしてそこまで嫌悪していたのか分からなかった。今思い返せば、赤は赤でも、柔らかく芯を中心に丸く重なり合う花弁は、葉の赤よりも余程生々しく、まるで肌の下に透ける血肉のように貴臣の眼に映ったのだと思う。
『父さん?!』
悲鳴のような声だった。それでも父からの返事も何もない。地を蹴る足音ばかりが、気配ばかりがもうすぐ手を伸ばせば背に触れそうな所にまで迫っていた。
ぐるぐると肺の中でとぐろを巻いていた恐怖が一気に頂点に達し、もはや後ろを振り返ることもできずに、しゃにむに走り出す。重い荷物は途中で背後に放り投げていた。
凸凹の道で何度もつまずき、膝を打ったが立ち止まることができなかった。痛みよりも何よりも、恐ろしさの方が勝った。左右に広がる毒々しい赤の間を走り抜ける。膝から流れ落ちる血がそのままツツジの蕾になりそうな、そんな酷い幻想を抱いたのを覚えている。
ひゅーひゅーと気管が限界を訴え、血の味がする唾を飲み込んで、もつれる足がもはや限界を訴えようとしていた時だ。別ルートからやってきた登山客に、貴臣は保護されたのは。
半狂乱になった7歳児の話など、内容が無茶苦茶な上に筋も何もあったものではない。それでも、保護者とはぐれたのは誰の目にも明らかで、どれだけ待っても現れないとなって、大規模な山がりが幾日も行われることになった。
範囲を広げての聞き込みや写真を公開しての呼びかけも行われたが、結局、貴臣の父親は何処にも見つからなかった。20年経った今もそれは同じだ。父は見つかっていない。生きている状態でも、そうでない状態でも。
元々、正月や連休に親戚の家に遊びに行った記憶などとんとない家庭だった。最近になって知った話だが、父も母も肉親とはほとんど縁を切っていたそうだ。祖母や祖父は存命だったらしいが、引き取りはあえなく拒否されたらしい。おかげで、晴れて両親ともに行方不明になった7歳児は何処にも行き場がなく、施設に入ることになった。
もしかすると父が持たせてくれた荷物の中に、失踪した母に繋がる何かしらが残っていたのかもしれないと最初の頃は少しだけ期待をしたが、保護者同様リュックは何処からも見つからなかった。ほとんど一本道の道路に投げ捨てただけにもかかわらず、綺麗さっぱり無くなってしまっていた。
動物が何かが持っていったのだろうと慰められたが、頭を過ったのはクマでも狐でもなく、背後から近付いてきた足音の主だ。それは年を経るごとに、想像の中でよりリアルに恐ろしく、そしてだからこそホラー映画のような作り物めいた存在になっていく。
黒い毛むくじゃらの巨体を揺らし、足の裏をする様にして砂利道を踏みしめながら、片手に貴臣の投げ捨てたリュックを持ち、反対の手に人間をぶら下げている。だらりと弛緩した足が、引き摺られて地面に二本の線を描いていく。
かしゃっ、と。足もとの乾いた落ち葉黙りを踏み抜いた音に、大仰に肩が跳ねた。
一気に意識が現在へと引き戻される。思考に耽ったまま歩いてきたせいで、いつの間にか別ルートとの合流地点を過ぎてしまっていた。
顔を上げれば、もうすぐそこに、むき出しの地面の道が迫っている。こんないつ人が通るかも分からない山間部で、呆けたまま砂利道に足を取られて捻挫、なんてことになったら笑い話にもならない。小さなクレーターがあちらこちらに空いた道に気を配りながら足を進める。
ざりっ、ざりっ、がさ、ざりっ。
踏み出す度に、靴底に小さな粒がめり込む。あの時に転んで付けた傷は、今でもうっすらと膝に跡を残している。いつまで経っても消えないそれに、父に無性に責められているような気がして、わざと同じ所に傷ができるように転んだこともあった。それでも思惑とは逆に、新しい傷は綺麗に完治しても、その下からまた同じ痣が滲みでてくるのだ。
まるきり、呪いみたいだと思った。
あの日、背後の足音の主を確認せずに逃げ去ってしまった自分の行動が、どうしても悔やまれて仕方なかった。
もしかすると、酷く体調を悪くして声も出せない状態の父がいたのではないか。貴臣がいなくなってしまったから、そのままこの山の何処かで苦しみながら息を引き取ったのではないか。もしくは、追いかけて来た父を置いていった母譲りの薄情さに息子のことを見限ったのではないか。
そんなまるきり都合のいい“もし”が頭の中を埋め尽くし、その度に両足を掻きむしりたくなるのだった。