水のようなあなた
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JRの駅からバスに乗って一時間ほどで着いた目的地は、先月で紅葉のシーズンが終わってしまっていた。
元々秋よりも5月のツツジのシーズンや残雪が残る初春が売りになっているようで、あんたみたいな若い人がこんな時期に行くのかいとバスの中で何くれと話しかけてきた地元の女性は眼を丸くしていた。
背負いこんでいたザックをひとまず足元に置き、紐の長さを調整する。
ほぼ初挑戦の言葉に偽りはなく、貴臣の自宅には山登りに適した靴の一足も置いていなかった。ランニング用の靴はあるにはあるが、舗装された道や晴天時以外不向きだという情報もあったので、頭の先から爪先まで揃える羽目になったのだ。
奨学金の返済以外に、これと言った金銭の使い道があるわけではなかったので、夏のボーナスもかなりの額が余。
この際だからと、飲みに繰り出した週の土日に、スポーツ用具の量販店で買い求めたのだが、素人の貴臣からすればその山岳グッズ一式は随分と大袈裟な代物に見えた。
対応した店員に登山予定の山の名を伝えてはみたものの、これと言って明確な反応はなく、でも用心に越したことはないですからぁなどという便利な言葉であれもこれもとおまけを付けられた。いいカモだった気がしなくもない。
下車したバス停から2キロ程県道を進む。入り口近くに停留所がないという辺りが、あまり観光客が多くないことを示しているようだった。
遠くに見える山には、常緑樹の緑の合間にぽつりぽつりと黄色や赤が滲んでいる。冬支度を始める頃なので、些か色味は寂しいが、日頃人混みに囲まれる時間の方が圧倒的に長い貴臣には十分に新鮮だった。
先月あたりなら、もっと見事な景観だったろう。何より、道の上から山、山から更にそれを越えた先までずっと、空を遮る物が何もないのだ。夏空よりも落ち着いた青の下、原色ばかりの光景なのに眼に優しいと感じるのだから、自然と言うのは不思議だ。
停留所から離れてはいたが、そこそこ綺麗に整えられた登山口の駐車場に辿り着く。小さな休憩所みたいなものまであって、はて、と貴臣は首を傾げた。20年前、初めてここに降り立った時は、父親の車に乗せられてきたのだ。こんなにも小奇麗な場所だったろうかと、思い返してみるが、あちこち穴だらけで該当箇所を上手く発掘できずに終わる。
躍起になって眉間に皺を寄せていたが、唐突に馬鹿馬鹿しくなって首を緩く左右に振った。今更、記憶の辻褄合わせをした所で、結局その後貴臣の身に起こったことは翻らない。
記憶の中の景色をつまびらかに思い出したから、なんだというのだろう。頭の上に輪っかでも乗せた偉い人が光と共に降りてきて、有難い言葉でもくれるのだろうか。それこそ、馬鹿馬鹿しい妄想だ。
想像の世界に羽ばたいていた貴臣は、気を取り直して、登山ルートへと足を踏み出した。ここから湖を含めた周囲の展望を望める頂きまで、およそ3時間の計算になっている。何度か蛇行ルートもあるが、基本道なりに進んで行けばいいはずだ。
同じ展望台に着くルートでも、こちらは円の下半分に該当し、上半分にあたる反対側のルートはこちらよりも道々の蛇行頻度も多く、所々ルートが溝で寸断されており、あまり環境はよくないとバスの女性から忠告を貰っていた。
人二人がすれ違うには十分な幅を持った林道は、頭上に張り出す木々の影で暗く、体感温度がぐっと下がる。地面を覆う木の葉は、赤、黄色と過ぎていった秋の名残を感じさせた。
貴臣にとって、紅葉は山々が一気に色付くものだった。そして同じくらい、一気に冬支度するものだと思っていたが、同じ木でも、葉の成る位置によって色付きが異なるというのをここに来て初めて知った。上の方の葉はもうすっかり色あせ落葉してしまっているが、低い位置のものは遅い色盛りを今迎えているようだ。
道々に響くのは、一定のテンポを崩さず歩く貴臣の足音と風にさらわれる葉の落下音ばかりだ。何度聞いても、葉の落ちる音の大きさにはぞっとさせられる。美しい物が美しいままで散っていくのに、あまりに相応しくないように思えた。美しく散る筆頭にある桜の花はここまで音を立てぬから余計に。
職場の忘年会でシューズが当たったという、ただそれだけの理由で始め、特段の辞める理由も見つけられずに続けているランニングのおかげで、足を運ぶ貴臣のペースにも息にも乱れは見つけられない。
趣味と言える程の熱意も興味もないが、下手に何の趣味もないというと見当違いの心配をされるのが関の山なので、そういう方面への予防にはなっている。
大体初めて顔を合わせるような輩には、名木さんランニング似合いますねぇなんて笑われるが、趣味のランニングが似合うという論述展開が貴臣には甚だ疑問だった。
だったら似合わない趣味ってなんだろう。似合わない趣味は似合う趣味よりも劣ったりするのだろうか。少なくとも、こんな益にもならない考え方をして、大して周囲を見ていない自分には、登山という趣味は似合わないのかもしれない。
ざっ、ざっ、がさ、ざっ。
足裏が地面を踏みしめる確かな音が続き、合いの手でもうつように葉が地面に降り立つ音が挟まる。足元の道は山間には不釣り合いなくらいしっかりとコンクリートで舗装されていて、確かな強さで足の裏を押し返す。
ここからもう少し進み、別の山への登山ルートとの合流地点より先は砂利道になっているらしいが、昔は入り口からずっと砂利の悪路が続いていたような気がする。おぼろげに覚えている20年前の道は、あちこち凹みがあり、すぐ横の山肌から落ちてきた大小の石のせいで、同じペースで歩くのも困難だったはずだ。
大きなバッグを背負い、ひょろりと細くて長いばかりの手足を動かして、よたよた道を進む押さない自身の姿が目蓋の裏に蘇る。連れてきたはずの父の姿は、隣にない。山道に入る前、駐車場で貴臣に対して父親は山頂に着くまでの奇妙な条件を二つ提示したのだ。
一つ、自分よりも先を貴臣が歩くこと。
一つ、頂上に着くまで後ろを振り返らないこと。
幼心に随分と矛盾したルールだと思った。
足の遅い子供を先に歩かせて調子を見たいというのなら理解できる。しかし、二つ目の振り返らないという条件が何を心配してのものか分からなかった。
7年間しか見てはこなかったが、他人に頼らずに自分の力で進めなどと熱血漢めいた助言を言うようなタイプの父親にはどうしても思えなかったから余計だ。
疑問はいつまでたってもなくならなかった。何故、という言葉が幾度も浮かんでは言葉にならないで飲み下した。今から思えば、嫌な予感はあったのだ。それでも、母がいなくなってから塞ぎがちだった父が、久方ぶりに外に連れ出してくれた機会だ。無駄にしたくない気持ちの方が大きかった。