水のようなあなた
給湯室に入った途端、笑顔は綺麗さっぱり消え失せ、190センチと無駄に縦にでかくなった貴臣を睨み上げる。お面をひっくり返したような切り替えの良さに感心しながら、言葉を探して両の掌をすり合わせた。周りのリズムとずれないよう注意しながら打ち合わせていた平の皮膚は、熱を持って少しむず痒い。で?と無言のうちに顎を向けられるも、適当な言葉が思い浮かばない。
「記憶違いではないけど、認識違いではあるのかも」
迷いに迷って結局口にできたのは、そんな曖昧な言葉だ。自分がそのあやふやさを自覚しているのだから、他人が聞いた所で納得する訳もなく、元々皺の寄っていた笹原の眉間に一本また縦筋が追加されただけだった。
「ああ? 俺にも分かるように説明しろよ」
「一応三行半突き付けられたのは、先々週だけど、そこはこの際あまり重要なことじゃないというか、俺には適性がなかったみたいだ」
部長に肩を叩かれながら、何事かありがたい言葉でもいただいたのだろう。彼女の隣にいた
先輩が身を縮めて、ひたすらに恐縮している。別れの言葉を思い出し、ならあの先輩との家庭は想像できたのだろうと腑に落ちて、思わず笑ってしまった。
先輩と彼女が並んでその腕の中に赤ん坊を抱えている映像は、自身と彼女の場合よりもずっと簡単に想像できた。貴臣と付き合っている間に曇っていた彼女の審美眼は、今やすっかり性能を向上させているようだ。
「つーか、お前さ、なんでそんな平気そうなんだよ」
「いやなんというか、納得の人選にぐうの音も出ないし、振られる決定打に心当たりあるから」
「じゃあ、あそこの二人が付き合ってるのには気付いてたのかよ。悪趣味だな」
「それは全然」
「お前ほんとなんでそんな平気そうなの?」
若干引き気味に繰り返された言葉に、貴臣も首をかしげざるを得ない。3年半付き合ったのだから、それ相応なりに衝撃は受けているつもりだ。だが、思った以上に己の表情筋は死んでいるらしい。
ふと、こういった貴臣のポンコツさを指して、可愛げがないと鼻自らまれた言葉を思い出す。思い出しはしても、だからと言ってどういう顔をすればいいのかも分からなかった。確かその時も、反射的に謝ってしまい、理解してないくせに簡単に謝ってんじゃないわよ馬鹿と小言を追加で貰う羽目になったのだ。
「同期の痴情のもつれに俺の方が傷付いたわ! もう今日は飲みに行くからな!」
「予約しとくけど、いつもの店で良いのか?」
「おっまえほんと、そういうとこだからな? なんかもうちょっと、人並みに傷付いたふりくらいしろよ。自棄酒とかナンパに走るとか」
流石に飯田が可哀想になるぞ、俺も。どうして今このタイミングで彼女が可哀想になるのか、まったく理解できずに貴臣は内心でのみ首を傾げた。
表立って動作に表さなかったのは、軽口を装いながらも本当に自身よりも余程動揺し、傷付いた顔をしている笹原には追い打ちになると思ったからだ。
フロアを満たしていたざわめきが、すっと引く。視線を上げれば、花束を渡された彼女と先輩が笑顔でお礼の言葉を述べていた。
自分といた時よりも綺麗に笑うようになった横顔に、寂しさや悔しさよりも納得の方が勝ってしまう。
家庭、家族、なんて字と字の連なりにしかならない文字を口の中で繰り返して見るが、どうにもしっくりこない。生きてきた27年の間、一度も身近に感じたことのない言葉だ。そのまま飲み込むには、どうにも口当たりが悪い。空咳を一つ落として笹原の視線を受け止めると、貴臣は代わりの言葉を落とした。
「じゃあ、山にでも行ってこようかな」
「おい待て早まるな、何も俺はそんなつもりで言った訳じゃないぞ」
「山だから山。樹海じゃないし、北の方だから」
「……雪山?」
「だから、違うって。ハイキング程度の山だよ。気分転換にちょうどいいだろうし」
北と言っても本州の北端まで行く訳でも、海を越える訳でもない。掘り返した記憶の底、小学生の自分がどうにか登れたのだからそこまで大変な山ではないはずだ。
「登山の趣味があったなんて知らなかった」
「むしろほぼ初挑戦。なんかふいに、登りたくなった山があってさ」
「ふーん、意味深だな。よっぽど思い出深い山なんだな」
「まあな――」
だって、俺が捨てられた山だから。
音を吹き込まず明確な形にならなかった言葉のせいで、相槌の後に微妙な余白生まれる。それに笹原は怪訝な顔をしたが、一段と高くフロア中に響き渡った拍手の渦に気を取られ、理由の深追いを切り上げた。
貴臣もつられて視線を転じながら、舌の上で転がしただけの言葉にそっと歯を立てた。それは、先程飲み込み切れなかった言葉なんかよりも、余程貴臣には慣れ親しんだ味がした。