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水のようなあなた

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(※)


 血液検査の結果も問題なく、医者から太鼓判を押されて退院した金曜の朝。病院の車寄せで貴臣を待っていたのは、ワインレッドに輝くGT-Rだった。
 車体に寄りかかり、親の仇でもある様に太陽を睨みつけていた車の持ち主は、貴臣を見つけると、無言のまま顎をしゃくった。そのまま、驚くこちらを意にも解さず、さっさと運転席に乗り込んでしまう。高校大学と弁論やプレゼンの大会で優秀な成績を収めている彼女だが、こと貴臣相手の時は説明の責任とやらを放り投げる癖がある。

 唸りを上げるエンジンに急かされ、助手席に滑り込む。シートベルトを締めるとすぐに、車は動き出した。いつ乗っても革張りのシートは、腰を下ろすのを戸惑わせる光沢をしていて、洗濯したとはいえ、事故当時の綻びがそのままになっている服で座るのは大変気が引けた。

「あんた、そんな服でどうやって家まで帰るつもりだったの」
「タクシーで適当な量販店に乗りつけようかと」

 ちらりともこちらを見ずに言葉を投げた運転手は、これでもかと深い溜め息を落とした。それは七割方は貴臣への嫌味とあてつけだ。残りの二割が自分自身への戒めで、最後の一割が謝罪といった割合だろう。
 20年間溜め息を吐かれ続け、今や貴臣はこの義姉の吐いたものなら、ほとんどどんな内訳での溜め息なのか分かるようになっていた。それが分かった所で、そもそも何故溜め息を吐かれたのか理解していないあたりが、彼女の怒りに油を注いでいるのが現実ではある。

「悪かったわ。直接持っていけないなら、せめて宅配で送れば良かったか」
「亜希子さんも仕事忙しいから別に気にしなくてもいいですよ。というか、今日もわざわざ来なくても良かったのに」
「新人がミスしなきゃ、火曜には一度顔出すつもりだったのよ。余計な騒ぎにならないよう、母さんにもそう言ってたし」
「お手数おかけしました」
「まったく、あの人悲劇のヒロインになれる舞台に飢えてるんだから、余計な燃料与えないでちょうだい」

 義母がもし病院に来ていたら、きっと写真のことなどどうすることもできなかっただろう。傷付いた義理の息子を熱心に看病する義母、という装置はそれだけ魅力的だ。

 月曜の朝に会社に姿を見せなかった貴臣を心配し、アパートまで様子を見に来た笹原は、そのまま亜希子に連絡を入れたようだ。その対応に、今は感謝するばかりだった。緊急時の連絡先は実家ではなく、義姉の携帯電話にしていたので、流れとしては不思議ではなかったが、笹原が早めに動いてくれたおかげで、早期発見にこぎつけたのだろう。

「あんたも女に振られたくらいで山に登りに行かないでよね、面倒くさい。職場のあの小うるさいの」
「笹原?」
「そうそれ。いたく責任感じてたみたいで、ぴーぴー泣いて何度も電話寄こしたわよ。自分が余計なこと言ったばっかりにって」
「亜希子さんは、なんて返したんですか?」
「失恋で死ぬなんて可愛げあるようには見えないって。そしたら絶句された。冗談の通じない奴。大体、愛想笑いの一つもまともにできない奴に、そんな情緒求める方が馬鹿みたいじゃない」

 平日昼間の県道を抜け、インターチェンジから高速に乗り込む。合流車線に入った瞬間から、スピードメーターはぐんぐん上がっていく。それは本線に入ってからも変わらずで、トラックや高速バスが続けざまに後ろへ流れていった。

「で? なんで山登りなんて急に思いついた訳。失恋したのは本当だとしても、別にそれは関係ないんでしょ」
「それはもう、ほんと全然。むしろ逆にこんなことになって彼女に申し訳ないです。結婚話で幸せな時期なのに、水差す形になっちゃって」
「わーお、あんたのその的外れな思いやり、久々に聞いたわ。相変わらず、胸糞悪い。まあ、どうせあんたが悪いんだろうけど、二股かけられた上で、結婚決ったからキープ枠から脱落って、怒らないわけ?」

 こちらも久し振りに聞いた亜希子の口癖だった。
 昨日の待合室で込み上げてきた感情を思い返す。文字にしてみると確かに中々酷いことをされたように思えるが、あのままならない程の熱い胸の痛みを、元恋人に対しても抱けるかと言うと、甚だ無理な注文だった。
 そう思うと、きっと自分の中で彼女の存在はあまり重要ではなかったのだと気付く。彼女はそういった貴臣の性質に本人よりも先に、気付いていたのかもしれない。そして一気に視界の靄が晴れたように、給湯室で笹原が見せた表情の意味も理解できた。

「なに、今度は腹でも割って詫びそうな顔して」
「結構酷い奴ですね、俺」
「今更ねぇ。私のことキツイ性格だなんて言う奴いるけど、あんただって相当だから。余計なとこ似るもんよね、ほんと」

 至極当然のようにそう返して、亜希子は意地の悪い笑みを口元に浮かべた。あまりにも義姉が楽しそうに笑うものだから、気付けば、貴臣の口から言葉が零れ落ちていた。

「俺、やっぱり、捨てられたみたいです」

 内容に、そして本人の内心に反して、口調は軽やかだった。
 車に乗り込んでから初めて、亜希子がちらりと視線を貴臣に向ける。噂好きの人間が放つねっとりとしたそれとは対照的な、何処までも乾いていて手触りが滑らかな視線だった。
 貴臣が浮かべた不格好な笑みをさらりと撫でると、すぐに目線は元に戻る。

「へえ、なに、遺留品でも見つかったわけ。当時の心境綴った手紙とか手帳とか」
「似たようなも感じです。分かり切ってたことなんですけどね、そんなこと。でも、なんかやっぱりショックだった。自分がショックを受けたことがまたショックで、なんだか笑えるなって」

 自嘲した貴臣に、亜希子がギアから離した左手で手招く。招かれるまま、ベルトを伸ばして顔を寄せると、満足そうに頷いた亜希子が指を握り込む。あ、と三者面談前の惨状を思い出したがもう遅い。近距離から繰り出された拳が、見事に右頬にめり込んだ。
 視線は前に固定したままなのに、綺麗にそれは決った。腕を振りきる距離がないのを見越してか、頬骨に指の第二関節がしっかりと当たる様に殴られ、見た目の軽さに反した、骨と骨が当たる鈍い音が体の中に響いた。

「ちっとも笑えないから、あんたもその不気味な引きつり笑顔止めて」
「……一応、愛想笑いのつもりだったんですけど」
「とことん不器用ねぇ」

 バックミラーを覗き、パトランプを隠した車がいないことを確認すると、更にアクセルを踏み込んだ。スピードのメーターが一気に占有面積を増やしていく。義姉にスピード狂の気があるのは随分前に知っていたが、やはりぐんぐん後方に飛んで行く防音壁などを横目にすると、今一度シートベルトを確認せずにはいられない。

「亜希子さん、ちょっとスピード出し過ぎじゃ」
「もっと出るけど」

 事もなげに言って、本当に亜希子は更に踏み込む足に力を乗せた。上機嫌にエンジンが鳴って、貴臣の背はシートに押さえつけられる。とっさに、頭上の手すりを強く掴む。

作品名:水のようなあなた 作家名:はっさく