水のようなあなた
「ご出産、おめでとうございます」
一つ一つの音を、噛み締めるように口にした。言葉を有効活用できたことなどないが、この言葉だけは、どうか少しでもこの傷ついた人の心に優しく沁みてくれればいいと願わすに入られなかった。
貴臣の言葉を視線と一緒に正面から受け取った遥は、顎を引いて頷くと、一呼吸置き、震える唇を結んだ。両の口角を上げ、垂れた目尻に涙を浮かべ、にっこりと、それはもう美しく笑んだ。
「ありがとう、ございます……!」
俺には勿体無いくらいに。寂しそうに、でも愛おしそうに呟いた声が蘇る。いつまで待っていても、中庭で貴臣を押した指先を背中に感じることはない。記憶ばかりを残して、さっさと彼は遠くに行ってしまったのだ。
生まれてきて、27年間生きてきた中で、初めて貴臣はどうしようもなく、腹が立った。
指に触れる温かさも、美しい彼女の笑みも、ここにある。誰よりもそれを見たいと、触れたいと願っていた、そのために足掻いていた彼が、どうしてここにいないのだろう。貴臣なんかを見逃して、納得顔してあの世になんか行って、あれこれ手伝った挙句に、最後の最後に綺麗さっぱり消えてしまった。
馬鹿なんじゃないの。そう罵ってやりたくて、慣れない悪態の一つでも言葉にしてやりたくて、口を開いた。それなのに、喉をせき止める熱い固まりが邪魔をして、呼吸一つ満足にできやしなかった。
結局、一つ息を吐いて、二つ息を吸って、何も言えないまま、眼を熱くすることしか貴臣にはできなかった。
母に捨てられ、父に捨てられ、義母にも望まれたようには振舞えなかった。
意味もなく、意義もなく生まれてきたのかもしれない。誰にも祝福なんて、されなかったのかもしれない。
それでも、あなたで良かったと彼が残してくれた言葉に、報われたような気分だった。
頭上から降る涙に、腕の中の赤ん坊が泣き声をあげて目を覚ます。
体全体を使って放つ泣き声は、あの日、石が消えた時に聞こえた声に良く似ている。
甲高く室内全体を震わせる声に、どうかこの子の声が、遠く山の向こうへ去っていった彼にも届くようにと、祈りをこめた。