水のようなあなた
「ある人が言っていました。自然は容赦がないって。どれだけこちらが落ち込んでいても、どれだけ苦しくて、胸をかきむしるほど悲しくても、関係無しに綺麗なままだって」
続けようとした言葉が、上手く喉から上に出てくれない。焦るばかりで、舌を噛みそうになる貴臣の背にふっと温かな何かが触れた。石を腕に抱いた重さと熱さが蘇る。足の裏に力をこめ、顎を引く。それだけで、不思議と晴れ晴れしい気持ちになっていた。
「生まれてくることも、それに似ている気がします。周りがどれだけそれに対して良いとか、悪いとか、正しいとか、正しくないとか言い募っていたって、そんなこと関係なくただ生まれてくる。きっと、辛いことがこれからあると思います。心ないことを言う人も、正当性を盾に拳を振り上げてくる人もいます。どうして、生んだんだとお子さん自体に責められることもあるかもしれません。でも、生まれてきたっていうその事実だけは、誰にも責められたり、否定されるものじゃないと思います。たとえ、あなたでも、お子さん自体にも」
ここ数日、自分史上最も言葉を口にしている。おかげで、許容量を大幅にオーバーした喉は痛みを訴えている。でも今だけは、血を吐いてでもいいから話し続けようと思った。一人で耐えていた遥のためにも、背中に触れる指先のためにも。
「だから、祝いの言葉なんて本当は自己満足なんですよね。エゴって言ってもいいかもしれない。それでも、俺たちにとっては、」
ぽたり、と指に温かな雫が触れて言葉が途切れる。指が白くなるくらい写真を持つ手を振るわせている遥を見る。痩せた頬を、透明な雫が次から次へと伝い落ちていき、それが写真の表面と貴臣の手を濡らしていた。
小さな声で謝る遥に、黙って首を左右に振った。冷たい風が吹く中、音もなく泣き続けていた遥は、ぐっと顔をぬぐうと、まっすぐに貴臣を見上げた。その瞳の強さが、義姉を髣髴とさせ、一瞬ぎょっと体が固まる。
「名木さん、このあとお時間ありますか。あるんでしたら、付いて来て下さい」
こちらの返事を聞く間もなく、遥はさっと院内へと歩を向けた。戸惑う貴臣の背が、目覚める前と同じように、とんっと押される。離れていった指に中庭を振り返れば、もうそこには寒々と冷えた光景が広がるばかりだ。
どうしてこのタイミングでいなくなるんだ。そう問いたかったが、先を行く遥を放っておくわけにもいかない。もう一度諦め悪く周囲を見渡して、貴臣は早足で遥の後を追った。
追いついた彼女に伴われ、向かった先は産科の待合室で、初めての異空間に動悸が激しくなる。おまけに、つれてきた遥は待っていてくださいと言い置いて、廊下の突き当たりにある自動ドアの先へと消えてしまった。
オフホワイトとコーラルピンクで壁と椅子が統一された待合室は、廊下の反対側の大人数用のものとは違い、一家族一部屋のこじんまりとしたものだった。
ソファの端の方に浅く腰をかけたが、場違いな空気に尻の座りが悪い。そろそろ耐え切れなくなりそうで部屋の外を確認しようか迷っていた所へ、遥が戻ってきた。彼女の後ろには顔立ちがよく似た、中年の女性が控えていて、不安そうに貴臣を見ている。
遥の腕の中には、真っ白なおくるみに包まれた赤ん坊が抱かれていた。手も足も顔も、どれもおもちゃのように小さい。目を閉じて微かに口をあけて寝入っている。
「日曜の夜、もう月曜ですかね、に生まれたんです。すごく難産で、土曜からずっと苦しくって、もう途中無理だって諦めそうになりました」
穏やかな声で話す遥は、声同様表情も静かなものだ。だがその苦しみの最中に彼女の中に過
ぎった思いは、きっと中庭で吐露したもののように、痛々しいものだったのだろうと想像ついた。
「でも、まるで誰かが代わりに引き受けてくれたみたいに、ふっと痛みと苦しみが引いて。そこから先はすごく早かったんです。良かったら、抱いてあげてくれませんか?」
唐突な提案に驚いたのは、貴臣だけではなかった。二人のやり取りを入り口のすぐ横から見ていた、女性が非難するように遥の名を呼んだ。しかし、呼ばれた当人は大丈夫だからと、答えのようなそうでもないような言葉だけを返して、おくるみごと赤ん坊を貴臣に差し出した。
「抱いてあげてください」
「いや、でも、俺そんな立場じゃ」
泣いていたのが嘘のように、力強い瞳だった。腹が据わった、というのはこういう人間に対して使うのだろう。
「樹のためにも、お願いします」
重ねられた言葉に、とうとう白旗をあげる。恐る恐る差し出した腕に、そっと置かれた赤ん坊は、小さいくせにちゃんと重さを持っていた。当たり前のことなのに、この何もかもが小さな体の中で、心臓がちゃんと動いているのだと思うと、無性に自分は今すごいものを腕に抱いているのだと心が落ち着かなくなる。
「厚かましいお願いついでに、もう一度、言っていただいても良いですか」
「はい?」
「私もちゃんと喜びたいんです。それに、お礼も言えていなかったので」
背筋を正した遥は、赤子の指をそっと握った。その光景があまりにも眩しく、貴臣は瞳を細めた。バラ色の頬も、潤った唇も、今の彼女には微塵も備わっていない。だけれど、深く胸の奥底に届くような表情だった。