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水のようなあなた

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 葉を散らした寒々しい木を中心に、芝生と少しの花壇が配置された裏庭は閑散としている。室内着のまま出てきてしまった首筋の皮膚が粟立ち、今までぬくぬくと暖房で甘やかされていた体が縮み上がる思いがした。
 芝生の上には数脚のベンチが置かれている。院内の受付とは逆に、ほとんど空っぽで、長いこと風雨にさらされていた身を日光で温めていた。

 一つだけ埋まっているベンチに、貴臣は近づいていく。院内着に淡いイエローのカーディガンとひざ掛けだけの女性は、無遠慮な足音にも意を払わず、じっと色あせた芝生を見下ろしていた。

「天野、樹くんのご家族の方ですか」

 いざ本名を口にすると、どうにも違和感が付きまとい、すっきりしなかった。ずっと苗字でしか呼びかけず、光希という名を一度も口にしなかったのに、おかしな話だ。

「おれは、いや、私は、先日遭難事故からこちらの病院に搬送された名木貴臣といいます」

 目の前に立ちそう言葉を続けて、ようやく相手が顔を上げた。
 スマホの画面に映っていた女性で間違いはない。年のころは、貴臣と同じくらいだろう。あの写真から受ける印象よりも、幾分上に見えた。もしかすると、地元を飛び出し東京に行く直前の写真を大事にとっていたのかもしれない。

 ただ、写真に切り取られた時よりも、数段彼女は疲れきっていた。眼窩は落ち込み、目の下には濃く隈が沈殿している。頬もこけて、もとのふっくらとした桜色の名残は見当たらなかった。そして、今中庭を包む冬の気配よりも一層寒々しく、白い顔色をしている。

「……ああ、樹と同じ山で遭難された人がいると聞いています。お怪我をされたようで、大変でしたね」

 一度、ゆっくりと瞬きをした彼女は、見た目よりはずっとはっきりとした口調で、義理の姉の天野遥だと名乗った。

「いえ、天野さんこそ、この度はお悔やみ申し上げます」
「失礼ですが、樹とはお知り合いで?」
「いえ、そういうのではないのですが」

 それ以上に説明の言葉が続かない。亡くなった時点では、二人は知り合いでもなんでもない。今だって、何という関係性が妥当な言葉なのか検討もつかないくらいだ。知り合いと呼ぶには思うところがありすぎるし、友人だというには腹に含むものがありすぎる。
 憧れも共感も同属嫌悪も友愛もすべてが一緒くたに煮込まれてしまって、捩じれ曲がった感情が縄のように足首同士を繋いでいる。そんな関係性だった。

「そういうのではないのですが、どうしても、ご挨拶しておきたかったので伺いました。不躾で申し訳ありません」

 言ってから深く頭を下げた。言葉に器用でないのは自覚している。今までは誤魔化そうと必死だったが、この場では、この人相手にそれをしたくはなかった。
 あまりに必死な顔で頭を下げる様子に、遥がぽかんと貴臣のつむじを見やるのが視線から伝わる。薄気味悪がられようと邪険にされたら、この後どうしようかと考えがまとまらない。
 何があっても封筒の中身だけは、どうしても渡したかった。そうしてできれば、彼が伝え切れなかったであろう言葉も、届けてあげたかった。

「名木さんは、随分と生真面目な方なんですね」

 何かを悟ったように軽く微笑んだ遥は、膝に置いた手の甲を見つめ、それ以上の質問の言葉を飲み込み、頭を下げた。動きに合わせて、写真の時よりも伸び、肩甲骨の辺りに届いている髪が肩から前へ滑り落ちる。

「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「実はお渡ししておきたいものがありまして。天野くんが撮っていた写真です」
「警察の方には、データの復旧は諦めた方がいいと伺ったんですが」
「えっと、なんか、個人的に詳しい人が一部分だけサルベージしてくれたみたいで」

 あまりに苦しい言い訳だ。写真の撮り主聞いていたら、腹を抱えて笑ったことだろう。
 おずおずとポケットから取り出した封筒を見やった遥は、穴だらけの貴臣の言い分にも知らぬ振りをしてくれるらしい。どういった、写真ですか。と顔を上げたが、すぐに何かに思い至ってベンチから腰を上げた。

「やだ、いけない。すみません、私、すぐに病室に戻らないと。母に預けっぱなしで、出てきちゃったので」

 預けてきた、の言葉から、出産したという話を思い出す。既に気持ちは院内に駆け込んでいる遥に、封筒を差し出しながら、貴臣はほとんど反射のように言葉を繋いでいた。

「ご出産されたとうかがいました。おめでとうございます」

 差し出した封筒に指を伸ばしていた遥は、口角を上げ、一瞬笑みの形を作ろうとした。しかしそれも、すぐに指ごと固まると、一転ごっそりと表情が抜け落ちてしまう。

「……めでたいんでしょうか、本当に」
「え?」
「私たち家族の話は、お聞きになりましたでしょう」

 部屋で聞いた噂好きの声を思い出す。沈黙で答えた貴臣に、遥もすぐに話の出所を察したのだろう。「何処にでも、そういうひとはいますからね」と睫を伏せて、細く息を吐き出した。

「こんなこと言うのはいけないことだとは思うんです。でも、父親の顔も見せられない、周りの人にだってこれから先、沢山傷付けられるかもしれない。どれだけ悲しくても、父親の行ったことは真実です。だからこそ、逃げ場なんてない。ずっと、あの子の人生にそれはつきまといます。そんな状況で生まれてきたことが、本当にあの子にとって、いいことだったのか、自信がないんです。ごめんなさい、私、母親なのに」

 ずっと胸につかえていた言葉だったのだろう。それくらい、一つ一つが凍り付いて重く、柔い皮膚など触れただけで、ずたずたに切り裂いてしまいそうな鋭さだった。実際に、他ならない遥自身が己の言葉に酷く傷ついたように顔を歪ませていた。
 貴臣は、そっと封筒の口を開いた。中に入っているのは、一枚の紙切れだ。他人から見れば、荒いインクの粒が寄せ集まって一つの像を結んでいる紙切れに過ぎない。ただそれを撮った人間を、彼の言葉を知っている貴臣にとっては何にも変えがたい一枚だった。そして、遥にとってもそうなれば良いと、祈るような気持ちで差し出す。

「よく兄弟そろって、登山に行っていたと聞きました」
「そうですね、二人と、あとたまに私も入って三人で遊びに行っていました。私たち、小学からの幼馴染なんです。他の山に比べて地味なんですけど、頂上からの景色をことの他光希も樹も気に入っていて」

 震える指が、そっと写真を受け取る。彼が誰よりも見せたくてたまらなかった、遥の手の中にやっと願いが届いた。
 写真の中の山並みは、まさに紅葉の盛りだ。常緑樹の緑の中、鮮やかな赤と黄色が踊り、空は抜けるような青い。そして、山間に顔をのぞかせる湖は日の光を一身に浴びて、きらきらと光、緑と紺の混じり合ったような深い色合いに満ちている。

作品名:水のようなあなた 作家名:はっさく