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水のようなあなた

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 会話がなくなった病室に、また時計の音が戻ってくる。
 どんなつもりで、光希が兄の名を語っていたのか想像しようとしたが、上手く集中できない。ここで出会ったのが兄貴みたいな人だったら。背中越しに吐露された想いと触れていた指先ばかりが思い出されて、貴臣はベッドに体を横たえた。

 刑事の登場で高ぶっていた神経を、冷たいシーツの感触がなだめてくれる。短時間に大量の情報と言葉をぶつけられた疲労が、眼の奥を刺激し、妙に重くだるかった。目蓋の裏に広がっている暗闇が静かに解けだして行って、眼と四肢をとろとろと溶かしていくような、淡い眠りを誘う。
 病室の外からはうっすらと、生活音が漏れ聞こえてきたが、ゴム栓でもしているようにくぐもって何処か遠い音。一番大きく聞こえるのはやはり壁に掛けた時計の秒針で、それが一つ二つ進んでは山の出来事を夢に見、三つ四つと進んではベッドの上に投げ出した左腕が窓から差し込む日差しに温められ感触を感じていた。

 いくつ秒針を数えていた時だろうか。ふと、現よりに戻ってきた意識が、ベッドの傍らの気配に気づく。見舞い客など訪れないのは自分自身が一番よく分かっていたし、看護師の巡回にしては早すぎる。目蓋を持ちあげようにも、縫いつけられているかのようにぴくりともしない。眠気が体中に満遍なく広がっていて、口を開くのも腕を上げるのも酷く億劫だった。
 声をかけるでも触れるでもなく、上から貴臣を見下ろしている気配は、陽炎のようにその場で揺らめいている。よくよく耳に意識を集中すれば、何かをぼそぼそと言っているようだったが、それも貴臣に対してではないらしい。

 こんなものでほんとにいいのかい、と不機嫌そうに言い捨てた声はしわがれた老婆のものだ。ざらざらとした声を宥めるように、最近は、勤めに有利に働く訳でもないから、と若い女の声が続く。童話の毒りんごを売る魔女のような声の老婆と引き換えに、女の声はたおやかで鼓膜に染みるような柔らかさがあった。
 更にぶつくさと言い募る老婆と宥める女のやり取りを聞いていると、どうやら老婆は貴臣に対して不満を抱いているような口ぶりだ。しかしいくら耳に集中しても、声に聞き覚えは微塵もない。
 なよっちいからちょうどじゃないか、などと本当のこととはいえ耳に痛い指摘までされる。何が調度いいのかは分からないが。

 部屋の外では沢山の人の気配が動き回る昼日中に、山の中で遭遇した怪異が出張ってきているとは思いたくなかった。しかし、気配は一つしかないのに、頭上でのやり取りは二人分。これだけで、覚醒に向かい始めた意識が警戒ランプを点灯させるには十分だった。

 飛び起きて早く逃げたいと思いつつも、また大穴にでも飲みこまれたら今度は何処に出るのか分からない。でももしも、と考えが横にそれる。落ちていった先でまた光希に会えたなら、今後こそ。その先に思考が至る直前に、絶妙なタイミングで額に軽い衝撃が走った。
 びっくりして、瞳を開く。その時にはもう、病室には貴臣一人しかいなかった。ひらりと、視界の端を何かが過る。寝る前にしっかりとしまっていたはずの扉が、少しだけ開いていた。外の声が、よりクリアに中に響いてくる。

「ほら、あそこの部屋に入院してるの、あっちの山で遭難していた子じゃない?」

 そこだけ音がズームになっているかのように、中年の女性二人の声が飛び込んでくる。幼少時の記憶が蘇り、扉に近付いていた体がびくりと固まる。しかし次に続いた内容に貴臣は反らしていた体をぐっと、扉の表面に近付けた。

「ああ、あの、お兄さんが轢き逃げした家の弟?」
「そっちじゃないわよ。そっちは上にいる奥さんでしょ」
「奥さん入院って?」
「出産らしいわよぉ」
「ええ? だって旦那の事故相手亡くなって、逮捕じゃなかった?」
「旦那がいない時に大変よねぇ」
「可哀想にねぇ」

 人の不幸が堪らないといった、どろりとした声だった。それでいて、口先の同情で自分の優しさを示したつもりになっている。そういう、出来そこないの張りぼての優しさががらがらと音を立てて床に落ちて、視界を汚しているようだった。
 思わず、音高く扉を閉め切っていた。苦い思いと驚きに、おろおろと視線をさ迷わせた貴臣は、淡いピンクのリノリウムの床に落ちた、白い封筒に気付く。掌大のそれは、表にもひっくり返しても何処にも宛て名も送り名も書かれていなかった。

 自分の物ではない。それなら一体。恐る恐る開いて、中身を確認した貴臣は息を飲みこんでそのままそこに固まってしまった。
 馬鹿なことを考えて叩かれた額をそっと押さえる。ごめん、と言おうと開いた口を意識してぎゅっと閉じた。代わりになんてなれなかった。だからこそ、今ここで出来ることをやらなければ、謝る資格すら自分にはない。

 振り返れば、今しがた閉めたばかりの扉がまた少し開いていた。導かれるように、廊下に出る。両脇にずらりと並んだ病室の先、ナースステーションへ続くカーブを、誰かがすっと曲がっていく。足早にそれに続く。走ってしまいたくなる気持ちを押さえるのに、心臓の上をぎゅっと掴んだ。
 エレベーター前を抜け、階段を下り、一階に辿り着く。病院の受付は、どこの椅子も呼び出しを待つ人でいっぱいになっていた。皆、携帯や本に目を落としたり、眠っていたり、外を眺めていたり、自分以外に関心などないようにして、ただじっと自分の名が呼ばれるのを待っている。

 人が切れ目なく立ち歩く合間を、細身の背中はするりするりと器用に通り抜けていく。後についていく貴臣の方が、人にぶつかりそうになっては謝り、立ち止まってしまし、追いつこうにも追いつけない。
 向こうはそれも織り込み済みなのか、見失ったと焦って周囲を見渡せば、必ず視界の端で確認できるような距離感を保ち続けていた。

 何度かそんなやり取りを繰り返しているうちに、ホールをどんどん離れ、建物の奥へ奥へと進んでいく。自然、人気も減っていき、気が付けば、周りはしんとした静けさだけが満ちていた。病院特有の、清潔だが潔癖過ぎて人を寄せ付けない香りがあたりに漂っている。
 節電のために、一つ飛ばしで照明が落とされた廊下は昼間だが薄暗い。白いサークルの中に、柔らかそうな茶色の髪が照らされると、受付を待っていた人たちと何一つ変わりないように見える。
 だが、円の外に出て廊下の暗さに身を沈めると、途端に気配が希薄になる。目の前にいて、触れられそうな距離にいても、向こう側が透けて見えてしまいそうな気がするのだ。

 声をかけたくて、でもどう呼びかければ言いのか迷ううちに、案内人の足が止まる。病院の裏庭に通じるガラス戸の前で、貴臣へと振り返った。
 冬の光に照らされた外は、薄暗さに慣れた目には痛いくらいに明るい。背中側からその光に照らされた相手の顔は、逆行になって暗く塗りつぶされていた。
 音もなく、両開きの扉が外側に向けて動く。その隙間へ溶けていくように、すっと彼は消えてしまった。冷気が頬を撫でる。写真を入れたポケットを上から確認し、貴臣は庭へと足を踏み出した。

作品名:水のようなあなた 作家名:はっさく