水のようなあなた
「いやぁ、エレベーターが中々降りてこなくて階段で来たんですが、やっぱ堪えますね」
「お、お疲れ様です?」
「ははは、ほんとすいませんね、うちの若いのが。やる気はあるんですが、融通が利かないというか、なんというか」
垂れた前髪を後ろに撫でつける。動きに合わせて、コロンの香りが鼻先を撫でていった。口調やイントネーションは完全に日本のオヤジといった話し方なのに、そういった部分で不思議と異国の雰囲気を感じさせる人だ。
「あの、混みいったこと聞いても良いですか」
「職務で答えられる範囲だったら」
「もう一人の、山岳者が亡くなったのって先月って本当ですか」
「まあ、ほぼ確定でしょう。本人の足取りとも合致しますし」
「あの、でも、その、私は」
彼と会っているんです。と言いたくて、でも言えなかった。亡くなってから一カ月も経った人間と山で談笑していたなどと言えば、精神科に案内されるに決まっている。
しかし、どうしても、貴臣は確認しておきたいことがあった。そのためには、この息をするのでさえ時に難儀する口を有効に活用しなくてはいけないのだが、油の切れたボルトのように軋んだまま動きだそうとしてくれない。
ぱくぱくと酸素ばかりをつまんでいる貴臣に鷲鼻の刑事は、そっと微笑んだ。ゆったりと足を組むと、ちょっと昔話をしましょうか、と切り出した。
「うちの祖父はその昔、炭焼きの仕事をしていましてね。炭焼きという仕事は、山に作った小屋で何日も火を燃やし続けて炭を作っていく。今でも夜の山は暗くてぞっとさせられるが、祖父の時代なんて今の比じゃなく、本当に闇が手で掬えそうな程濃かったらしい。そんな山で過ごしていると、説明のつかない現象が起こることがあるとよく話してくれましたよ」
いわく、下山の途中背後からずっと付いてくる足音がある。
いわく、夜の闇の中で何とも知れない者たちが宴会を開いている音がする。
いわく、こちらの考えを言い当てては枝を揺らして笑う藪の中の何か。
「祖父は結局、炭焼き小屋で亡くなっているのを発見されましてねぇ。熊に襲われたのだろうという話で片付けられたが、これがまあ、内臓が綺麗に食われていて」
ここいらに熊はいないはずなんだが、方便というやつでね。
人差し指を唇の前で立て、息だけで笑う。7歳の頃に、荷物の行方を諦めさせた大人の顔がすっと脳裏を過った。
「山では本名を名乗らないこと。後ろからかけられた声には、振り向かないこと。今後も登山を楽しみたいなら、気を付けておいた方がいいですよ、名木さん」
異様な雰囲気に、唾を飲み込む音が大きく響いた。完全にこの刑事の空気に飲まれてしまい、あれこれとこねくり回していた嘘は唾と一緒に胃に逆戻りしてしまった。
話すだけ話して満足したのか、壁の時計の時刻を確認すると鷲鼻の刑事は椅子から立ち上がった。その際に、どっこいしょ、なんて顔に似合わない掛け声を言うのも忘れない。
「どれ、私もそろそろ職務に戻りますわ。何か他に聞きたいことは?」
「……亡くなった天野くんの携帯電話は無事ですか」
「外側だけなら。中身はちょっとどうだろうなぁ」
「写真のデータだけでも復元は難しいでしょうか」
細々とした言い訳を排除した直球の問いかけを、先程までいた宇佐美という男が聞いたなら、鬼の首を取った様に騒ぎだすだろう。本来出会っていない、偶然同じ山で遭難し、偶然同じ日に発見された他人にしては、随分と踏み込んだ質問だと貴臣自身自覚はしていた。それでも、刑事は特段不審そうにするでもなく、顎を撫でながら天井を見上げて唸った。
「写真、ねぇ。山の写真ですか? 兄貴と一緒に昔はよく登って撮ってたらしいってのは小耳にはさんだけど。ここ数年は兄弟揃わないんで全然だったらしいが」
「地元にいなかったんですよね」
「高校中退の後は、東京中心に都心をふらふらしてたみたいで。まあ、愛想がいいからあちこちで可愛がられてはいたみたいだが、一所に根付くってのをしない奴だったみたいですよ。そんなんでも、最後は地元の山に戻ってくるんだから、里心でもついたのかねぇ」
「? お兄さんの話ですよね?」
「いいえ? 兄貴は大学の間を抜かしてずっと地元にいたよ。地元一の進学校から都内の有名大学に入って、Uターンで公務員にっていう弟と正反対の道のりで、まあ地元じゃエリート扱いだったみたいだ」
食い違う認識に、お互い首を傾げ合う。
「今回、山で亡くなったのって、天野光希くんという名の青年じゃないんですか」
「それは、兄貴の方。山にいたのは弟、天野樹だよ」
兄のことを語った光希の顔と言葉が、脳裏によみがえっては消えていく。いつき、という音の並びを幾度か口の中で転がして、どうしても自分の中でそれが上手く馴染むことがなく、違和感が拭えない。
戸惑いをみせた貴臣に、ここに来て初めて刑事は不審そうな顔をした。どう誤魔化したものか皆目見当がつかず、「狐に化かされた気分です」と正直に当惑を口に出してしまった。それでも、彼はそれ以上お粗末な返答に踏み込むことはなく、静かにまた微笑むと、労いの言葉を残して去っていった。