水のようなあなた
こんこん、と病室の扉が叩かれた時も、特に相手を確認することもなく、窓の外を見つめたまま貴臣は「どうぞ」と機械的に返事をしていた。
言ってから、ふと、看護師や意思のノック音にしては、一度目と二度目の音の間隔が短いことに気付く。たったそれだけの違いで、酷く硬く無愛想な音になるものだ。
「お疲れの所、大変申し訳ありません」
ノックの音同様、堅苦しい声と挨拶で入室してきたのは、スーツ姿の若い男だった。幾分か貴臣より若い男は、上背こそそこまでなかったが、そのぶん肩から腕、首周りまでみっちりと筋肉がついていて、一歩病室に入ってきただけで、部屋が狭くなったような圧迫感がある。
きっちりした歩き方も、全部にスタッカートがついていそうな喋り方も、見るからに体育会系、それも武道系の匂いのする男だった。貴臣の人生において、まったく見聞きしたことのない見た目と声だ。
部屋間違えていませんか。と聞く間もなく、大股でベッドの傍らまで距離を詰められる。驚きのあまり反応が遅れてしまい、その合間に、無言を肯定と勝手に受け取った相手は、懐から黒い手帳を取り出して、貴臣の眼前にそれを突き出した。
「警察です。名木貴臣さんですよね? 二、三、伺いたいことがあります」
手帳を広げ、そのままこちらの返事も聞かずに始まった尋問は、カンペでも読み上げているような淀みも抑揚もない声音だ。ただ、どれだけ滑らかな声でも貴臣の耳に正確に届いていなければ意味がない。警察の来訪という。まったく望んでいないサプライズに凍りついた貴臣は、ほとんど問われる質問の意味が呑み込めずにいた。
「あのっ、遭難事故の話じゃないんですか?」
恐らく父の時同様、遭難者の捜索に警察や地域の人間が駆り出されたはずだ。不用意な登山者への注意というのなら、警察がこうやって来るのもまだ分かる。だが、途切れ途切れに頭に入ってきた刑事の言葉は、貴臣の思いもよらない事柄ばかりだった。
「天野くんの遺体が見つかったっていうのは、本当ですか?」
「本当も何も、名木さんが救出された穴に彼もいたんですよ。死亡推定日時は先月ですが。そのことについて、こちらも気になることがあるんですがね」
死亡、先月、という単語がぐるぐると頭の中を回る。理解できない訳ではない。あの悪夢のような出来事の中で、光希が生きている人間と違う存在なのだということは、感じ取っていた。どれだけ、掴んだ腕に体温があったように感じても、呼吸を繰り返す様を横で見ていたとしても、だ。
だが、刑事が貴臣に聞いてきたのは、もっと現実的で由々しき問題だった。
「名木さんは県道沿いのバス停で降り、歩いて、駐車場がある山の南側から登られたんですよね」
はい、と頷く前に、バスの乗客と運転手が貴方のことを覚えていました。と、何故か逃げるつもりもないのに、勝手に逃げ場を塞がれた体になる。分かっていることをわざわざ問わないで貰いたい。
「間違いありません。駐車場近くの登山口から登山道に入って、展望台を目指して歩いていたんです」
「その途中に事故に遭われたと?」
「そうです。なんというか、足場を踏み外してしまって」
「南の登山ルートから、北の登山ルートまで転がり落ちていったと?」
「……はい?」
事故の発生時の状況を事細かに聞かれてしまったら、なんと答えればいいのか頭を悩ませていた貴臣は、会話の流れで頷こうとした首の動きを途中で止めた。刑事の言葉を二度、三度と口の中で繰り返し、あまりの意味不明ぶりに、そのまま横に傾げる。
「お二人が発見された穴は、北側の登山ルートの斜面下にあるものでした。山頂まで行かれてから、反対側のルートに降りられたんですか?」
「え、いや、山頂までは」
「行っていませんよね。その日同時刻に登っていた登山客は、行きも帰りも貴方を見かけていない」
さっと、顔から血が引く。何を目的にこの刑事が尋ねてきたのか、ここに来て貴臣にも理解できた。
「こちらに登山にいらっしゃったのは、何度目ですか?」
真正面から見据えられ、息が詰まる。あの青年を殺したと疑われているという事実は、酷く貴臣を動揺させた。そして、刑事が想定している意味ではないが、少しその疑いは真実だと思う部分も確かにあったのだ。
あの暗闇で、貴臣は生き残ってしまった。一度自分で放棄した命を、手渡したと思っていた光希自身から返されてしまったのだ。そうして、光希は山から帰ってこなかった。
瞳に過った動揺は、事情を知らない他者から見れば、充分怪しく見えたことだろう。刑事の口が、次の言葉を発そうと大きく開く。スローモーションのように、ゆっくりと唇同士が離れ、歯の並びと赤い舌が覗いた。
「宇佐美、こんなとこにいたのか」
割って入ってきた呼びかけがなければ、退院後のコースが確実に決定していただろう。
宇佐美と呼ばれた刑事よりも随分と年季の入ったスーツを着ているのは、中年の男性だった。白いものが混じり始めた頭髪に、日本人離れした鷲鼻が目に付いた。
「ちょっと、失礼しますよ。えー、名木さん? あ、この間の無事発見された方ですね。いやぁ、いくらハイキング向けの低山とはいえ、あんまり無茶な登り方しちゃ駄目ですよ。我々の捜索だって国民の税金投入されてるわけですし」
「は、はあ、ご迷惑おかけして、すみません」
「いやでも、腕の骨折だけだったの不幸中の幸いでしたね」
形式通りの言葉を、形式よりも遥かに軽い調子で言い終わると男は、宇佐美の肩を叩いて病室の外を顎でしゃくった。
「お前、もしかして、同じ場所でこの人ともう一人発見された、なんて報告真に受けてここまできたんじゃないだろうな」
「は、真に受けてって」
「あのなぁ、初めてで知らないだろうけど、あれだけの大人数で捜索作業してんだぞ。情報錯そうして、混乱するんだよ。同じ日に同じ山で二人が見つかった、って聞いて、誰かが勝手に同じ場所で発見された、なんて余計な部分付けちまったんだろ」
「しかし、発見者に直接話聞きましたが」
「最初に発見した地元のじいさんな、前の日の酒が残ってて色々頭ごちゃごちゃして口が上手く回んなかったって言ってたぞ。大体、報告書にそんなこと一つも書いてなかったんだから、ちゃんと確認しろよ。怪我人に迷惑かけてんな、馬鹿野郎が」
すぱん、と小気味い音を立てて宇佐美刑事の頭を叩く。体格で言えば、余裕で宇佐美の陰に隠れてしまうだろうが、隙を与えない話し方と有無を言わせぬ締め上げに、さっきまでの勢いはどこへやら、宇佐美刑事は詫びの言葉を置いてすごすごと部屋を出ていった。
あまりの言葉量とスピードについていけず、貴臣は一つも言葉を挟めずに傍観に徹していた。元から緩めていたネクタイを更に下げて緩めた鷲鼻の刑事は、ちょっと失礼とベッド側の丸椅子に腰かけた。