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水のようなあなた

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 数秒か、数十秒か、数分か。もはや馬鹿になってしまった体内の時計では分からない。どんどん石は重く、熱く、貴臣の手の中で変容していく。膝が震え、歯が欠けてしまいそうになる程強く奥歯を噛みしめた。汗が止まらず、こめかみから伝ったそれが顎先へ次々伝い落ちていく。
 片腕では限界が近い。徐々に前のめりになり、筋肉の筋と骨が嫌な音で軋んでいる。後ろからの声は先程から聞こえなくなっていた。触れる指の輪郭だけが、鮮明だ。どうしてこんなことをしているのか。体が役目を放棄したいと叫び出しそうになるその度に、背に触れるその指に繋ぎとめられる。

 何も言わない。そこにいるのがもう、見慣れた青年の姿をしているのかも分からないのに、貴臣はただただ重さと熱さに耐えた。その指が、切実な祈りのように感じられたからだ。
 獣のような唸り声をあげて、右腕を動かす。肘から先は動かないが、その上ならどうにかなった。石の側面に沿うように回し、左の指で右肘を掴んで固定する。折角の手当ても無駄になってしまったのは、すべての感覚を一瞬上回った痛みで理解できた。自分でも馬鹿だとは思ったが、背後から聞こえた息を飲む音にはつい笑ってしまった。

 痛みと熱さがぐるぐると混ざり合って、精神を占領していく。意識が遠のきそうになったその時、始まった時の唐突さと同じく、急にすっと腕の中の負担が軽くなった。見れば、白い煙が一筋、二筋と立ち昇り、溶けだすようにどんどん石の存在が薄くなっていく。氷が解けていく映像を早回しで見ているかのようだ。
 呆けている内に、石は薄く軽くなっていき、甲高い悲鳴のような音を発して消えた。貴臣の腕の中は元の通り空っぽだ。これで良かったのだろうか。不安になって光希に確認しようとしたが、またもや無言のまま前を向くように背中を押さえられる。

「これで君の願いは叶ったの?」
「ばっちりです。ありがとうございました。俺じゃあ、あの石に触れられなかったんで」
「この後君は、どうするの」

 俺を、どうするの。
 無言のままに投げかけた問いを、余すことなく光希は汲み取ったのだろう。指が強く背を掴む。責められているような気がして、不躾な質問だったのかもしれないと慌てて頭を下げた。

「どうして、謝ったんですか?」
「君を傷付けたかもしれないと思って」
「……ほんと、ばっかだなぁ。お兄さんは」

 ざわざわと遠くから、喧騒が聞こえる。風のような地響きのような、足音のような、判然としない騒ぎだ。
 父のことを噂していたお喋りな化け物どもだろうか。それとも、噂の父本人だろうか。
 気にはなるが、背後の光希の気配は、どうしても後ろを向くことを了承しない。まるで一本の明確な線が、貴臣と光希の足元を両断しているようだった。

「ほんとはね、最初にお兄さん見つけた時、とっとと身代わりにして、こんな暗い山から這い出してやろうって思ってたんです。ここに来たのが、あなたみたいな人じゃなかったら、それこそ兄貴みたいな奴だったら、そうしようと思ってたのになぁ」

 足元の感覚があやふやになっていく。ざわめきがさっきよりも近く、大きくなっていって、すぐ後ろにいるはずの光希の声も拾いづらかった。顔も見えず、様子なんて少しも伺えないのに、彼がくしゃりと顔を歪めて微笑んでいるのが肌で感じられた。そして、背中にそっと触れた指先が濡れていることも。

「どうしようもないけどさ、来たのがお兄さんで良かった。ここにきてくれたのが、俺よりもうんと生きるのに不器用で、自分のことに無関心で、そのくせ、俺よりもずっとお人好しのお兄さんで。俺に出会ってくれたのが、あなたで良かったと、心の底から思うよ」

 焦りに突き動かされて、顔を見ようと名前を読んだ。だが、視界に光希を捉えきる前に、今までで一番強く背中を押される。
 耐えきれずに、前に踏み出した足が、何にも触れることなくそのまま落ちていく。体が後ろに傾いで、手を伸ばすのが掴むモノも掴んでくれる人もいない。貴臣は、風を切ってどんどん落ちていく。

 元からいた場所も不明なら、何処に向かって落ちて言っているのかも皆目見当がつかない。ただ、もうそこにいってしまえば、あの青年には会えないのだろうと思った。
 風に負けないように声を張り上げた。自分の耳にさえよく聞こえなかったそれに、返答なんて何もない。それでも、暗闇の向こう側で笑った顔が見えたような気がした。


(※)


 次に目が覚めた貴臣は、赤も緑も黒もない白一色の病室に横たわっていた。
 ベッドヘッドに寄りかかり、ぼんやりと窓の外を眺める。遠くに、赤と緑の混じった山が見えたが、それがさっきまでいたはずの山なのかどうかは判別がつかない。

 折れた右腕は今やがっしりと固定されていて、大して痛くもない代わりにろくに動かせそうもない。もうあんな無茶はできそうにもなかった。
 巡回していた看護師に見つかるまでずっと外ばかり眺めていたので、慌てて呼ばれてきた医師にはやけに頭の殴打を心配された。

 一体全体どうなっているのか。土曜の早朝に入山したはずが、目が覚めれば水曜日になっていた。月曜の存在を憂う暇もなく、早足で貴臣の上を四日もの時間が過ぎていってしまったらしい。

 体のあちこちを確認され、血液まで抜かれたが、腕以外はいたって健康体という話だった。
 ようやく解放され、職場に連絡を入れなくてはと焦って携帯を見れば、既に笹原から話は聞いたから元気な姿見せるためにもゆっくりしてこいとメッセージを受信していた。一応上司にだけ個別に連絡し、自分の不手際と抱えていた仕事の確認を終えれば、後は特段することもない。

 様子見と検査の結果待ちで金曜までの拘束を言い渡されていたが、ゆっくり休むには心がまだしっかりと体の内側に納まりきっていない。ふと時間が空けば、背中に触れた指先を思い出し、見るともなしに山ばかり眺めている。

作品名:水のようなあなた 作家名:はっさく