水のようなあなた
正体の見えない区切りに尻ごみしている様子に気付いているのかいないのか、光希はそれまで見向きもしていなかった貴臣の左手をむんずと掴んだ。そうして、自身が立ち上がる勢いに乗せて、力任せに引っ張り上げたのだ。
痛みが右腕から脳天に突き抜ける。声すら出ない。しかし、そんな痛みなど知らぬ顔で、掴んだままの腕を引っ張り光希が暗闇の中を走り出した。
「どーしても死にたいってんなら、俺に止める権利ありませんけどね。どうせなら、その前に俺のお願い聞いて下さいよ」
軽やかな口調に呼応して、足取りまでも軽い。体重を感じさせない動きだと思いかけて、実際体重などないのかもしれないと奇妙な納得をしてしまった。それでも、貴臣の手首を引く指はほんのり温かいような気がするのだから、不思議だ。それは、目の前で動いている人物が、死んでいるなどと思えない脳が見せている幻覚なのかもしれない。
貴臣には黒一色の世界にしか見えないが、先を行く背中は時に右に時に左に逸れては戻り、戻ってはまた曲がりの繰り返しで存在しない道を先へ先へと進んで行く。時折、後ろを振り返っては、大人しく付いて来ている貴臣ではなく、その更に後ろの方を気にかけていた。そしてその度に、腕を引く指の力が強くなっていく。
いい加減、痛みと疲れで息が苦しくなってきた。足がもつれて転んでしまうかもしれない危惧が無言のうちに通じた訳でもないが、走り出した時と同じ唐突さで前を進んでいた背中が止まった。
「そこにある石、持ち上げて下さい」
タタラを踏んで止まった貴臣を見上げてこともなげそう言うと、さっさと貴臣の後ろ側に回り、軽く背中を押して前に突き出す。
そこ、と言われて足元を見れば、暗闇の中に不自然な程白く、丸い石が転がっていた。石と言っても、貴臣の両手には余る大きさだ。少し縦に伸びた楕円形で、縦の長さは30センチ程だろうか。しゃがみ込んで触れてみると、表面はさらりとした滑らかさで、心なしか少し温かいような気がした。
「重いから気を付けてください。持ち上げたら、そのままキープで」
畳みかけるように指示を出し、もう一度背中をとんと押す。顔が見えないからか、今までで一番固く、少しでも触れたらそのまま落下して割れてしまいそうな声だった。
「お願いですから、絶対に落とさないでください」
目測でだいたい5キロくらいか。目的がよく分からないが、自由に動く左腕を回して、抱え込む。片腕では少し不便だが、できないことではない。掬いあげるようにして抱え込み、軽く掛け声一つで腰を上げた。特段のふらつきもなく持ち上げてから、確認のために振り返ろうとした貴臣の背に、二つの掌が触れる。
「前、向いたままで。これからそれ、どんどん重くなっていきますから、耐えて下さいね」
「え?」
言うが早いか、ずしりと左腕にかかる負荷が増した。咄嗟に、回した腕に力を込める。服越しにはあるかないか分からなかった温かさも、温度を増して、少し熱いくらいになった。言われた言葉と実際に起こった現象に混乱し、落とさなかった結果に安心する間もなく、また石が重くなる。
まるで見えない誰かが、石の中に無尽蔵に水を注ぎこんでいるかのように、見た目は全く変わらないというのに、実感する重さばかりが増していく。そして、温度もまたかんかんに熱せられた鉄のように、肌を焼いていった。反射的に石を放り出そうと動く体を、背中に添えられた手の感触でどうにか押し留める。