水のようなあなた
「お兄さん!」
声と同時に、ぽっ光が灯った様に視界が開けた。暗闇に慣れ切っていた目が、唐突な変化に耐えきれず、強く瞳を閉じる。それでも、これまでの暗さ中であやふやだった体の輪郭が太い線で上書きされたかのようにはっきりしたのを感じられた。
「ああ、良かった! てっきりはぐれたかと思っ、て、腕、大丈夫ですか?!」
左手を上げて、目の上にかざす。かざした腕も指も、はっきりと見える。横に膝を突いて覗き込んでくる光希の顔も、地面らしき所に横たわっている自分の体も、手首と肘の長と真ん中辺りでおかしな方向に曲がっている右腕も、すべて確認できる。
だが、それ以外は上も下も、右も左も真っ暗なままだ。ただ、自分たちの姿だけがぼんやりと光でも放っているかのように視認できる。
「荷物無事ですね? なんか適当な布で固定しときましょう」
「天野くん」
「はい?」
「鬼求代ってなに?」
焦りを顔に滲ませ周囲を見渡していた動きが、ぴたりと固まる。どうやら彼には、貴臣には見えない周りが確認できるようだった。
おおよその意味なら、何となく予想がつく。それでも、本人の口から聞いておきたかった。一度、二度。瞬きの合間に口が開いて、閉じ手を繰り返す。深く息を吐いた三度目に、光希は真っ直ぐに貴臣を見下ろした。
「俺も、難しいことはよく分からないんですけど、不慮の事故で死んだ人が、生きている人間を殺すことで新たな命を得る、っていう考え方みたいです」
「耳慣れない言葉だね」
「元は中国の考え方みたいですよ」
「国境を越えて取り込むのは、日本人ほんと得意だね」
ふふふ、と意識して口角を上げた笑いは、自分としては及第点を上げたい出来だったが、光希は同じようには笑ってくれなかった。冗談を言って悲しませた時と同じように、唇を強く噛んで、眉間に皺を寄せた痛々しい表情をしている。
もう一度、意識して笑ってみる。聞けば聞く程、及第点からは遠ざかって行って、最終的には笑っているのか泣いているのかよく分からない不細工なものになってしまった。
「とにかく、お兄さん、その腕どうにかしましょう。じゃないと動くのにも支障が出ますし」
「いいよ」
言葉を遮って、軽く左手を振る。理解できずに、固まったまま貴臣を凝視する光希に、もう一度「いいんだよ」といって光希の前に掌を差し出した。些細な動きだったが、振動が右に響いて、忘れた痛みがぶり返す。
「何だか色々あって疲れちゃってね。もう良いかなって思ってた所なんだ」
せめて、父親の願い通り彼の代わりに死んだ方が親孝行なのかもしれないが、流石にそこまで出来た息子ではない。
それに、と。紅葉散る道に入る直前、光希が見せてくれたスマホの画面を貴臣は思い出す。充電と圏外マーク以外は、そっと隠されてしまったが、垣間見えたそこにあったのは写真の待ち受けだった。
「スマホの待ち受けの子が、君のこと待ってるんじゃない?」
「……見えちゃいましたか」
「少しだけね。勝手に見てしまったことについては、お詫びするよ。でも、美人な子だったね」
「俺には勿体無い位に」
泣き笑いのような顔で、光希は視線を伏せた。差し出された貴臣の手を見つめたまま、彼が酷く迷っている気配が空気に滲み、ざわざわと皮膚の産毛を逆立たせていく。
周囲の景色が見えないこの環境は、時間の経過さえ曖昧だ。自分の中の時計の秒針がかちかちと動いているけれど、果たして合っているのか自身がない。60も数えていられず、ただかちかちと時限爆弾のタイマーを待つ気分で内側からの音に耳を澄ませていた。
眼を閉じて最終通告を待っていた貴臣は、ふっと凪いだ空気に目蓋を上げた。そこには、見覚えのある赤いナイロンバックを開けて中を物色している光希の姿があった。
「山岳用の救急セットまで持ってきてるとか、ほんと、お兄さん店員の思うつぼですね。まあ、おかげで固定するものには困りませんけど」
言いながら、広げた三角巾で手早く右腕を固定していく。さっきまでの重たい空気が知らぬ間に何処か遠くに旅立ってしまい、その唐突さに着いていけない貴臣はされるがままだ。動かされる度に痛む右腕よりも、放っておかれている左手の方が気がかりだった。
「あま」
「俺が、お兄さんの性格言い当てた種明かし、しましょうか」
呼びかけを言い終えるよりも一拍早く、見本のような笑みを浮かべた光希が、真上から貴臣を見下ろした。日の光など差さないこの暗闇の中で、その瞳はきらきらと輝いていた。それは、この暗さの中だからこそ映える光り方だ。到底、太陽の下で目にできるものではないのだと貴臣は悟った。
「俺のね、とてもよく知る人間に、お兄さんにそっくりな奴がいるんです。他人にもてめぇにも興味がなくて、その場限りの人間関係の作り方ばかり上手いから顔は広いのに、誰ひとり懐に入れきれない奴でね。好きなこともやりたいこともなくて、ぶらぶらして、でも変に小器用だから生きてはいける。本当にただ、息してるだけなんすけど。その辺は、お兄さんの方が不器用だし、もうちょっと誠実かもしれません」
ふふふ、と浮かべた頬笑みは、貴臣のそれなんて太刀打ちできないくらいに完璧な笑みだった。
「だからね、お兄さんの性格結構分かるんですよ。考えてることも、なんとなく追えますし。今こうして、楽になりたくて、何もかも全部放り出したくなってるんだろうなってこともね。うっし、できた」
きゅっと、冷たい音がして布の結び目が仕上がる。それが合図だったかのように、またかちかちと体内の時計が時を刻み始める。それが今度は何に対するタイマーになっているのかが、分からなかった。ただただ、終わりに向けて針が貴臣を急かしている。