水のようなあなた
ふっと、冷たい空気が、肺と食道を白く染める。その寒さに、どろどろとした栓のない考えが凍りついて、脳に余白が生まれる。あちこちに溶け出していた四肢の感覚が、徐々に元の形を取り戻していき、漸く、ああ自分は寝ていたのか、と理解する。
夢うつつのぬるま湯の居心地はよく、空気の冷たさを避けるように身じろぎした貴臣は、その瞬間脳天まで突き抜けた激しい痛みに飛び起きた。いや、意識としてはそのつもりだったが、体はそれについていけず、中途半端に頭を上げたままで止まった。
痛みに声が出ない。脂汗がこめかみから首に流れ落ちる。口を開けでも、潰れた言葉の成り損ないしか出てこなかった。
肺に酸素が足りないのに、深く息を吸うことすら難しい。犬のように何度も喘いで、ようやく両眼を開けることができるころには、全身ぐっしょりと汗で濡れていた。
痛みの元を確認しようと、おそるおそる右腕を見やる。しかし、本来そこにあるはずの腕が確認できない。慌てて左腕を見、そのまま体があるはずの場所にまで視線を走らせるが何一つとして像を結ばなかった。
何処を見ても、真っ暗なまま。開いていると訴える瞼の感覚が信用できなくなる程に、何も見えない空間に貴臣は横たわっていた。
直前の大穴への落下とそれに至るまでの山での色々が一気に蘇る。
一緒に落ちたはずの、光希は何処だろうか。危険から逃がすつもりが、逆にこんな結果になってしまったことが年長者として情けない限りだった。
名前を呼ぼうと息を吸い込み、吐きだそうとした所で、頭上から聞こえた足音と話し声にそのまま呼吸ごと言葉を飲みこんだ。
「聞いたか。酒びたりの馬鹿が、喜び勇んで獲物を追いかけてったらしいぞ」
「ああ、それか。なんでも知ってる奴が入ってきたって、気合入ってたからなぁ」
しわがれた声が二つ、三つ、草木をかき分ける音と共に振ってくる。年老いた男の声かと思えば、次には同じ者の声でも若い男のように聞こえる。電波の悪いトランシーバーを使っているように、言葉と言葉の合間が雑に途切れ、細く鋭い呼吸音が挟まるのが耳障りだった。
話し声と時を同じくして鼻を刺すような異臭まで辺りを包みこんでいる。毛の長い動物の雨の日の匂いに、鉄錆びた生臭さが混じり合っていて、少しでも気を抜いたら胃液がこみ上げてきそうだった。
「おお、知ってるぞ。何十年か前にあいつが連れてきた息子だろう」
「なんでぇい、じゃああいつ、感動の息子との再会にでも行ったのかよ。っか、下らねぇ」
「そいつはどうだろうなぁ。あいつ、次の鬼求代は自分にしてくれって方々に頭下げてたじゃないか。大方、息子を代わりに差しだして、てめぇはとっとと現世におさらばしたかったんじゃないかえ」
「はっはっは! 手に負えねぇから捨ててった子どもを、今度は自分のために殺そうってのか。見た目同様、中身まで畜生のようだ! まあ、俺たちが言えた義理ではねぇがな」
違いない。どっと哄笑が湧いた。貴臣は自由になる左手で、自分の口を押さえこんでいた。多分押さえていたはずだ。指先の感覚がない。冷たい氷に押し込められたように、触れても動かしても実感がわかなかった。
声の主の正体などこの際どうでも良かった。ただ、そいつらが言っているのが、自分のことだと、そしてやはりあの名前を呼んだのが父なのだという可能性が貴臣の肺を一杯にしていく。
「しっかし、あいつも馬鹿だねぇ。結局、その坊主、別の奴に掠め取られてんじゃないか」
「生きてる時から出来が悪いのは変わらんみたいだ」
「早い者に権利があるのが倣いだからねぇ。それを分け前貰おうとするんだから、どだいあいつには向いておらんさ」
「それにしても今回はやけに早いな。取りに行ったのだって、ついこの間死んだ奴だろう?」
「北のが取りに行って、うっかり殺し損ねて、死なせちまった奴だろ?」
「なんだそりゃ、北のも大概阿呆だなぁ」
あっはっはっはっは。ごうごうと、笑い声が渦を作って風を撒き散らす。台風に巻き込まれているようだ。風を顔に感じているはずなのに、やっぱり自分の鼻の線すらはっきりしなかった。
その後も、化け物どもの話は続いていたが、徐々にその声が遠くなっていく。強烈な悪臭も徐々に薄まり、貴臣はのろのろと口元全体を覆っていた指を外した。その指が無様に震えている。指だけじゃない。体全体が、内側から突きあげてくる何かに耐えようとか細く震えている。貴臣はもう一度口を押さえた。今押さえつけているものが、一度でもここから出ていってしまったら、取り返しがつかないと思った。
分かっていたことだ。捨てられたことなど、20年前のあの日にはっきりしていたことで、今更姿の見えない化け物にお墨付きを貰った所で、「はあ、知ってましたけど」といつもの貴臣なら無感動に頷いているはずだ。
少なくとも、そういう人間だと、そういう、他人にも自分でも、興味のない人間のはずなのだから、貴臣は。
それでも、どうしても、胸の内が痛くて堪らなかった。
馬鹿みたいだ。分かり切っているなんて口で言っておきながら、死人の意思が分からないのをいいことに、自分に都合のいいように考えていた。
もしかすると、はぐれただけかもしれない。
もしかすると、自分を探している間に山の深くに入って行ってしまったのかもしれない。
もしかすると、今でも何処かで貴臣を探しているのかもしれない。
こうして真意がはっきりした今、縋りついていた張りぼてが無様でしかなかった。