水のようなあなた
「……お兄さんって、この山頂上まで登ったことありますか?」
「え、いや、ないかな」
20年前も今回も山の途中で、貴臣の登山記録は途絶えている。貴臣の返答に何を満足したのか光希は一つ深く頷くと、返事のないスマホの画面をじっと見つめた。その視線の暗さには、一瞬、ロープが必要なのは自分ではなく彼の方ではないのかと貴臣に危惧させるような脆さが潜んでいるように見えた。
「俺もこの山登ったの久し振りだったんすけど、昔は兄貴と一緒に結構遊びに来てたんです。頂上からは、山の紅葉と緑の木と日の光がさしてキラキラしてる湖が一望できて、くさくさしてる気持ちの時なんかに見るとすげぇ圧倒されるんです。容赦ないなぁって」
「容赦ない?」
「はい、なんかこっちの気分とか環境とかそんなん関係なく綺麗で、落ち込んでる時くらいは汚くあれば、世の中こんなもんかって思えるのに。そういうの、まったく加味してくれないから、容赦ないなって」
視線を上げて、それまでの張りつめた空気など忘れたように朗らかに微笑むと光希は、スマホを軽く振ってみせた。
「こん中に、今回撮った写真入ってるんで、山を降りたらお兄さんに見せてあげますよ。ほんとは、ちゃんとしたカメラで撮った方がいいし、できれば直接頂上から見て欲しいんですけど、難しいでしょうから」
最後の言葉の意図が読み切れず、貴臣は素直に頷くことができない。笑う光希と彼の持つスマホを見比べてみるも、投げかけられた言葉以上の何かを読み取ることができないでいる。どうしてか分からないが、この言葉には気楽に返事をする気にはなれなかった。
脂汗が背中を伝い、ぐるぐる思考が回る。どういう意味かと問い返しても良いものなのだろうか。何となく、聞いても答えは得られないような予感もする。なら、こちらから上手く誘導できれば相手も言いやすいのかもしれないが、そんな口が達者なら少なくとももう少しまともな振られ方ぐらいしているだろう。
どんな言葉を選べばいいのか、思考に大半を持って行かれていた貴臣だったが、光希の顔色が変わったことには視界の端に気付いた。あれ?と、首を傾げた光希が周囲を見渡す。
「今、なんか聞こえませんでした?」
「え?」
「や、足音みた――」
じゃり。
その音が耳に触れた瞬間、貴臣は光希の言葉を最後まで聞かずに、その腕を掴んで駆け出していた。
「ちょっと! お兄さんっ?」
「いいから! とにかく走って!」
顔中に紅葉の葉が当たる。茂みで揺れていた蕾が、風もないのにざわめいて、早送りでも見ているみたいに綻んでいく。横を見ても前を見ても赤ばかり。一等美しい悪夢を見ている気分だ。
遅れがちな光希の体の重さが、引き摺る右腕にかかる。背後の足音は、ぴたりとついて来ている、音と音の重なり方が不自然で、二本足の生き物なのか、それすら再考の余地が出てきた。
また名を呼ばれたらどうすればいいのだろうか。酸素が足りない脳みそが、光希を助ける前に遭遇した不可思議な現象を引っ張り出してくる。一時間程しか経っていないはずなのに、もう随分と前のような気がしてくる。あの声は、幻聴だったのだろうか。今もってしても、自信がなかった。
糸で引っ張られるように、上体が後ろへと逸れていく。見てはいけないと本能が警鐘を鳴らしているが、どうしても確認しないではいられなかった。好奇心なんて可愛いものではない。むしろ、責務という言葉が相応しい感覚だった。
あと少しで、視界に何かしらが映るという角度になった時だ。右腕にかかる負荷が、一気に増した。
「前!」
悲鳴のような警告は、真後ろというよりも少し上方から降ってきた。ちぐはぐな位置関係に疑問を呈するよりも先に、地面を蹴っては着地し、更に地面を蹴るという反復運動が途切れた。蹴るはずだった固さが、いつまで経っても足裏に触れない。
視界からは赤と白が消え、視界を埋め尽くすのは黒ばかり。足元から風が巻きあがり、服の裾を揺らした。ほとんど反射のように足を踏み出してはみたが、何もない空間であがいて終わりだ。地面が抉って現れた大穴に、なす術もなく貴臣と光希は吸い込まれていった。
(※)
母が何故家を出ていったのか、理由はよく分かっていない。
ただ、ある日突然、本当にちょっと買い物に行ってくるなんてノリで、ふらりと一人で出掛けて、そのままだ。外に男を作っていただの、夫の解消のなさに嫌気がさしたのだとか、好き勝手近所の女性陣が噂し合っていた。そうして決って最後には、「でも、お腹を痛めて生んだ自分の子供まで置いていくなんてねぇ」と視線を寄こしては、菓子やら食べ物で貴臣を慰めたのだ。優越と同情をブレンドして作った、優しさの出来そこないではあったが。
腹を痛めて生んだ子が可愛いのなら、あの人にとって貴臣はどんな存在だったのだろう。
母がいなくなってから、元々精神的に不安定で仕事に影響を出していた父は、まともに働けなくなっていた。酒の匂いの漂う、薄暗い自宅に帰る道すがら、毎日貴臣は母の顔を思い浮かべては、自分の中に流れる血の価値の無さに打ちのめされていた。
怒らないの?
自分の方が余程怒った顔をしている姉の言葉がまた蘇る。
むしろ、どうして怒れるんだろうと貴臣にとってはそちらの方が疑問だった。元々、貴臣は義母に対してなんの感慨も持っていない。亡くなった長子の代わりを望まれたから大人しくしていたが、元から愛されたいと思ったことも、実母で得られなかった自己肯定感を満たして欲しいなんてことも求めてはいなかったのだから。
むしろ、血の繋がりであそこまで愛情を傾けられるなら、それに合格できなかった貴臣には何も言えることなどない。実の父母からだって持てあまされていたのに、ましてや義理のなんてなったら、多くを望む方が罰あたりだ。この歳まで育ててもらえて、大学まで通わせてもらえた。扶養者としての責務はすべて果たされたと言っていい。愛情なんて義務でも何でもないのだから。