時空を超えた探し物
――これも一つのきっかけだ――
自分では意識していなかったことなのに、急に目移りするというのは、昔聞かされた「きっかけ」によるものだという考えもありではないだろうか。
歴史ものに飽きたわけでもなかった。ある程度の歴史上の人物の本を読んだという意識はあったが、
――読めば読むほど、次々に読みたい人が出てくる――
というのが、歴史ものの本を読む醍醐味だった。
その醍醐味が薄れたわけでもない。嫌になったという感覚もない。ただ、
――恋愛モノが読みたい――
と思ったのは、「きっかけ」以外の何物でもないだろう。
そういえば、恋愛モノを読むようになってから、少し自分の中で落ち着いてきたような気がした。
それまフィクションを読まなかったのは、落ち着きがないために、どうしても先を急いで読み込んでしまうため、途中を端折って読む癖がついてしまっていた。歴史上の人物の本であれば、途中端折っても、基本的には時系列に書かれているので、読み返す機会が生まれたとしても、読み返す場所の見当はついている。
それに比べてフィクションはそうもいかない。
――きっと途中を端折ってしまうと、途中で分からなくなり、分からなくなると、ラストシーンに向かえば向かうほど、読んでいて訳が分からなくなってしまいそうな気がする――
と感じていた。
だから、それまでフィクション系に手を出す勇気がなかったのである。
しかし、急にフィクションが読みたくなった。それも恋愛小説である。
慣れてきたはずの寂しさだったにも関わらず、恋愛モノというのは、一番ハードルの高いものだと思っていた。
ただ、恋愛小説にもいろいろなものがある。
ライトノベルのようなベタな恋愛小説もあれば、逆に嫉妬や憎悪が渦巻き、犯罪の匂いさえも漂わせるドロドロの恋愛小説もある。
さすがに、いきなりドロドロの恋愛小説というのは無理がある。かといって、この年になってベタな恋愛小説というのも、どこかわざとらしさが感じられそうで、あまり読みたいとは思えない。
――では、なぜ恋愛小説なのか?
作家で選ぶのも手だと思った。
同じ恋愛小説を書く人で、ベタな恋愛小説を書く人が、ドロドロとしたものを描くことはできないだろうし、逆も同じであろう。そういう意味では、作家でジャンルを選ぶのが一番いい手段ではないかと思うのだ。
そういう意味で、悟は久しぶりにレンタルビデオ屋に顔を出した。
映画を観て、原作を読むというのも悪いことではないと思ったからだ。
最初に原作を読んで、映画化されたものを見るというのは、
――原作に適うものはない――
という考えがあるので、あまりしたことがない。しかし、逆であれば問題ないと思うので、悟は恋愛もののDVDを借りようと思ったのだ。
――そういえば、恋愛モノのDVDのコーナーに立ち寄るのは初めてだな――
テレビで放送されたものを録画して見たことはあったが、わざわざビデオ屋で借りて見たことはなかった。
――新鮮な気がするだろうか?
と思って立ち寄っていたが、思っていたほど新鮮な気はしなかった。やはり、恋愛モノの映像はあまり今まで見てこなかったこともあってか、悟には馴染みのないものとしてしか映らなかった。特にケースの表に描かれているものを見ると、どこかウソっぽさが感じられた。写真で写されたものはまだいいが、絵画になって描かれているものは、ケースを見た瞬間から、興ざめしてしまうような気がしていた。やはり映像に似合うのは写真であり、絵画ではウソっぽさしか感じない。
――まるで子供だましのようだな――
ただ、それは今になって思うことであり、三十代に映画館で見ていた頃のポスターで絵画やアニメ系のものがあったとしても、そこにウソっぽさはおろか、違和感すら感じることはなかったのである。
先に映像を見てから、原作を読むという発想はしばらく続いた。半年くらいは続いたかも知れない。しかし、小説に違和感を感じることがなくなってからは、パッタリとレンタルビデオ屋に立ち寄ることもなくなった。やはり原作が一番であることに変わりはないということを、再認識したからだった。
小説を読んでいると、時間を忘れさせてくれる。
時間を忘れるということは、寂しさを忘れるということにもなり、いいことのように感じるが、実はそうではなかった。
その時には分からなかったが、小説を読んでいて、それまで以上に小説にのめりこんでいき、自分がまるで架空の世界の中にいるような思いがしてくるようになる。
それまでに何度か、そのことを知らせる信号のようなものを感じたことがあった。しかし、そんな時に限って、小説の中に入りこんでしまったかのように感じているようなのだが、感覚的に感情がマヒしてしまったかのようで、本当に感動しても、どこに感動しているのか分からない。あくまでも感覚的なものであって、
「感動しているのか、していないのか?」
と聞かれると、
「しているような気がする」
としか答えられないようなことでも、自分の中で確信的に感動していることを分かっている。ただ、具体的な詳細を聞かれても、どう表現していいのか分からないだけなのだ。
具体的な詳細など、誰が答えることができるというのか?
そんなことも分かっているのだが、自分の感覚がマヒしていることで、答えることができない自分に非があるように思えてならないのだ。
なぜ、感覚がマヒしてきたのか、最初は分からなかった。だが、一番今慢性的に感じていなければいけないはずの寂しさを、感じることができなくなったその時点で、感覚がマヒしてきたのだということに気が付いたのが、小説を読んでいて、ふと気が付くと、自分が小説の世界の主人公になりきろうと思っていた世界から引き戻されたのを感じた時だった。
小説の世界の主人公になりきろうとすると、どうしても気になるのがヒロインだった。
――主人公というのは、ヒロインに慕われているものだ――
と思っている。
いや、ヒロインに慕われる主人公でなければ、本を読んでも楽しくはない。自分が同じ恋愛小説でも、どんな話を読みたいのかというと、
――主人公である自分が、慕われていると思いこめるような小説――
であった。
ラストでどんでん返しが起こり、裏切られたとしても、それは問題ではない。ストーリーが展開していく中で、慕われているという主人公を感じながら読み込んでいくというのは、それだけ自分が寂しさを感じたくないという思いの表れだったに違いない。
――寂しさなんて感情は、すでにマヒしていたはずなのに――
と思っていたが、マヒしていたわけではなく、慕われているという幻想が中和剤になって、寂しさをマヒさせているのだ。だから、慕われているという感情が、リアルすぎると却ってウソのようなので、あくまでも幻想でなければ、中和剤としての役目を果たさないのだろう。だからこそ、
――小説の中の主人公――
なのである。
悟の四十代は、小説を読むことで自分の寂しさを紛らわせているつもりで、感覚をマヒさせるために、小説の中の主人公になりきることが一番だということに気付いた年でもあった。
――寂しさとは何か?