短編集6(過去作品)
大きく息を吸う。欠伸の後のいつものことなのだが、欠伸と違って涙が出てくることはない。吐き出す息を見ていると白くなっているのが分かるくらいで、さぞかし気温が下がっているのが分かるというものだ。
息を吸う時に喉の奥に違和感を感じた。
――空気もかなり乾燥しているようだな――
去年くらいから空気の乾燥状態に敏感になってきた私は、思い切って加湿器を買った。元々喉の強い方ではないため、うがいだけは欠かさずにしていたが、それだけではどうにも辛くなってきた。別に喘息というわけではないのだが、埃を自分なりに感じるようになり、掃除も頻繁にしなければ気がすまない。それなりに部屋も片付いているのはそのためだ。
「男の部屋にしては片付いてるな」
一度泊まりに来た友達に言われたことがある。
「女が来てるんじゃないか?」
そんな言葉に笑いながらごまかしていたが、実際に女性が尋ねてくることなど皆無だったのだ。
私は結構本を読む方である。
そのため本棚には文庫本がところ狭しと並んでいるが、好きなものを片付けるくせがつくと、自然に他も片付くようになってきた。
それも私の性格の一つである。
自分の性格だと思っているくせに、そのことについて説明を求められると答えようがない。確かに好きなことだと食事の時間を削ってでもするのだが、嫌いなことは露骨に嫌だという思いが顔に出ているはずである。
しかし、その反面、やり始めると自分が納得するまでしないと気がすまないところがある。いわゆる「食わず嫌い」なところがあるのか、「出不精」なのか、とにかく自分でも変わっていると思っている。
しかしこの性格は嫌いではない。
「好きこそものの上手なれ」ともいうが、好きなことに集中できるだけいいと思っている。特に読書など一旦始めれば、一日に四、五冊程度は軽く読んでしまうほどで、我ながらその集中力には感心する。
「贅沢な時間の使い方」が好きな私は、読書に当てる時間をそう位置づけている。
家で読むこともさることながら、私には本を読む時には決まった場所を持っていた。
そこはありさも知らない場所で、まるで私にとっての「秘密基地」のようなところである。
そこは白壁に特徴があり、夜はライトアップされて清潔感のある喫茶店で、あまり目立つところにあるわけではないので、お客さんもまばらである。通勤路から外れているために、本来なら知らずにやり過ごしていても何ら不思議のないところで、なぜ、その店に立ち寄ったのか自分でもはっきりとした記憶がない。
ここを知ったことで、
――きっと自分の人生は変わっていたかも?
と思えるところだ。
そこで出会いがあったり、人生を変える出来事があったりしたわけではないのに、我ながら不思議で仕方がない。
それだけに「贅沢な時間」を使うために見つけた場所として、私自身の中で位置づけている場所なのだ。
しかし、「秘密基地」であるその喫茶店が夢に出てくることなど、ほとんどなかった。それよりも行ったことのないような場所で、記憶を紐解いてもどうしても分からない場所が夢に出てくる時が多い。
しかも一度や二度ではないのだ。数回見たことがあるものであって、時々気持ち悪くなる。
本来ならほとんど覚えていないはずの夢の中でも、そこだけを鮮明に覚えているということは、私にとって怖い夢であり残像が残るものとして位置づけているからに違いない。
そこは薄暗い街灯がポツポツと点在するだけのところで、赤レンガの塀の肌を不気味に浮かび上がらせている。
遠くから船の汽笛が聞こえてきそうで、潮の香りが鼻をつき、生暖かい湿気を帯びていて気持ち悪そうである。
もちろん夢なので、感覚があろうはずもないのだが、この夢に限っていえば、リアルな感じが漂ってくる。
確かに小学生時代、横浜に住んでいたこともあり、海に近い赤レンガの塀が繋がっている光景をいまだに目を瞑っただけで思い出すことができる。
その思い出がこんな夢を見せるのかという考えもあった。なぜなら夢の中の私は今の私なのである。
夢というのは過去に見た夢であっても、不思議なもので、友達が小学生のままなのに、なぜか自分は「今の自分」なのである。傍から見れば、小学生の中に大人が一人混じって遊んでいるという異様な光景も、夢の中では許されるのだ。
店内に入る時に大きな鈴の音を聞いたような気がした。まるでアルプスの羊が首からぶら下げているような鈴で、重低音が耳の奥に残っているはずなのだが、あまりにも自然だったためか、記憶として残っていない。
しかし、その音を聴いた瞬間に私の身体はすでに店内にあった。
木目調で彩られた店内は意外にも暖かく、コーヒーの香りが充満しているのが嬉しかった。コーヒーと聞いただけで気分が「贅沢な時間」を味わえると常日頃思っていることもあってか、すでに立ち寄っただけで満足感が味わえる。
タンゴが流れている店内では、木でできた丸テーブルに椅子、あとはカウンターといったレトロな雰囲気を味わうことができる。まるで大正時代にタイムスリップしたかのようで、心なしか客の雰囲気も「モガ・モボ」のように見えてくる。
店内に流れているタンゴも雑音が入っていることから、CDを使ってのものではなく昔ながらのレコードである。針が浮いて溝をなぞる音は、まさしく小さい頃の記憶を呼び起こされる。
丸テーブルもさることながら、私はカウンターに腰掛けた。
普通、喫茶店に寄ると、一人の時は大体カウンターに腰掛けることにしている。いくらテーブルが空いているとしても、視線はカウンターしか捉えていない。目の前で入れてくれるコーヒーを見ながら飲むのが、私にとって喫茶店での「贅沢な時間」の使い方なのである。
この雰囲気でクラッシックが流れていても、違和感があるわけではない。
ルネッサンスの雰囲気を味わいながらのコーヒーも洒落ていていいのだが、大正時代を思わせるレトロさもまた格別である。
客は皆寡黙だった。
情熱的なアルゼンチンタンゴというより、少しライトな気分になれる欧州のタンゴなので、会話のBGMとしても十分なはずである。しかし、皆それぞれ自分の時間を楽しんでいるのか会話はまったくないのだ。
本を読んでいる人が多いのか、ほとんど顔を上げようとはしない。しかも男性も女性も帽子をかぶっていて、顔が見えないのだ。
――大正時代の男女ってそうだったのかな?
などと考えてみるが、確かに見た目に違和感はない。
考えてみると、皆それぞれ単独の客なのかも知れない。同じテーブルに座っているからといって、連れとは限らないのだ。
そんな雰囲気に少し疑問を感じながら店内を見渡していたが、カウンターの奥でコーヒーを作っているマスターもまた、寡黙に見えた。
暗い人という雰囲気ではないのだが、寡黙が似合いそうで、ただ、目つきが鋭い人のようである。時々頭を上げて店内を見渡しているが、そのたびに鋭い視線が飛んでいる。
コーヒーを注文して少し待っていると、奥の扉が開いて女性が出てくるのが見えた。どうやらそこはトイレのようで、その人も同様に帽子をかぶっている。
白いワンピースに白い帽子、いつの夢でもその人はその格好である。
作品名:短編集6(過去作品) 作家名:森本晃次