ミチシルベ
四 20年前
「そうですね、やっぱりそのままのようですよ」
達郎は淡々と答えた。感情がないというよりも努めて感情を入れないように。
「そうか……、そりゃそうだよな」
「はい……」
今から20年前だけでなく、その後の10年前にも「そこ」へ行くチャンスはあった。岸場たちはそこに大きな忘れものをしてきたのだ。
標高8500メートル。世界の頂上からの帰り道、天候が良ければその頂が見えるその場所だ。頂上ではないのだが現在はそこに国旗が掛けられている。達郎が説明する内容は、それは10年前から全く変わらずそのままにあるということだ。二人は多くを語らなくてもそれですべてがわかる。岸場と松沼だけではない、そこへ行った者ならわかるということで、そこへ行くには並々ならぬ努力と、自然を味方につける強運が必要となる。
岸場はもう一度行かなければならなかった、しかし二度目の挑戦をしたあの時は高地適応の失敗と悪天候でそれはできず結局ベースキャンプ隊から達郎率いるアタック隊を指揮することになった。
最初の時もそうだった。シェルパの助言を聞き入れはしたが結局は登頂を決行し世界の頂点に立つには立ったがあの事件が起きたのだ。
「そうか、結局は今も人の役に立っているのだな――」
「はい――」
国旗をそこに置いてきたのは達郎だ。山の上で物を置いてきてはならないのはわかってはいたが、達郎も、そこへ行けなかった岸場もどうしてもそうする必要があった。そのままにしておくのがどうしても許せなかったからだ。
「ああすることが正解だったと思います。我々と我が国と、そしてあそこまでたどり着いた者のため」
人の役に立っている、というのはそこにある物は動かされることはない。山頂を目指して歩く人間以外の生物はいない。そこにあるものはそこにあるままだ。もちろん達郎が置いてきた国旗も。つまりはそれは道無き道を歩く登山者がそれを目印として先を目指し、そしてかえる道を確認する――、だから人の役に立っているということだ。
向かい合っている二人は互いに上を向いて同じ天井を見つめた。そこに何があるわけでない。そこにあるのは殺風景な真っ白の天井だけだ。
「また、その話ですか?」
間に入ったのは志織だ。沈みかけた雰囲気を読むのが上手な彼女はニコリと二人に微笑みかけた。「それよりおかわりされますか、コーヒー?」
「ああ、そうだな」岸場は残りの一口を飲み干してカップをデスクに置いた「じゃあ頼むよ、志織ちゃん」
志織は二人のカップに残りのコーヒーを注ぎ足した。