ミチシルベ
三 事務所
岸場が構えている事務所兼店舗は連峰の麓にあって、一階では登山グッズの販売、二階は講演会などの段取りをする事務所となっている。本当は山の中に構えても良かったのだが、それでは仕事と日々の生活が頗る不便になるので、結局この場所を自分のホームグラウンドと決めた。お世辞でも儲かっているとは言えないが明日食べるものに困っているほどでもない。
「おざまーす」
岸場は二階の扉を開け、先着に挨拶して部屋の奥にある自分の机に座った。
「おざます」
「おはようございます」
先着は二人、事務所はこれで満室だ。
「岳(がく)さん、昨日はどでした?」
元気よく声を掛けたのは盟友の松沼達郎(まつぬま たつろう)。大学の山岳部の一年後輩だ。20年前、岸場は松沼と共に地球の頂点を目指し、そこに立った間柄だ。そして彼の肩書きは岸場の補佐役であるが、今でもオファーがあれば世界中のあちこちの高嶺を渡り歩き現地での指導も行っている。
「ああ――」
岸場はどちらとも取れる返事をした。ただ、長年の盟友にはそれだけで過不足なかった。
「そうか、また思い出してしまいましたか」
「大丈夫だ、気にしないでくれ」
「まあ、とにかく落ち着いてくださいね……」
そう言って入れたてのコーヒーをデスクに置きつつフォローに入ったのは事務員の松沼志織(しおり)。達郎の愛娘だ。二人がサガルマータに登った時は彼女はまだよちよち歩きのかわいい頃だ。地球で一番高いところで彼女の写真が笑っていたのを覚えている。今では立派に事務の仕事をこなしており、岸場と父の仕事を遣り繰りして見方によれば親たちを上手に動かしている。
岸場は志織が出したマグカップに手を伸ばした。一口飲んで、大きく深呼吸。熱いコーヒーは岸場の体の隅々に熱を伝えて広がって行く――。
岸場は大きく息を吐いた。
「それはそうと達っつあん、お疲れさん」
「ありがとうございます」
達郎は先週チベットから帰ってきたばかりだ。かつての盟友だったシェルパが亡くなったのでその葬儀に参列していたのだ。岸場も行く予定はあったのだがスケジュールの折り合いがつかず代表して達郎がチベットに飛び、ついでに情報を収集してきた。毎年計画には挙げるがあれ以来実行をしていないエベレスト登頂、情報のあるとないとでは山上での動きが全然違う、実行するか否かには関わらずあれ以来情報を収集することは怠っていなかった。
「それで、どうだった。あっち(ヒマラヤ)の状況は」
「そうですね……」
達郎の机の上にもコーヒーが置かれた。達郎はコーヒーのにおいを確かめて深呼吸し、ゆっくりとカップに口を着けた。そしてもう一度深呼吸して天井をボーっと見つめる、達郎のいつもの仕草だ。