ミチシルベ
二 悪夢
次の日、嫌な夢を見た。昨日講義であんな質問をされたからだ。
「岸場チーム、喜べない帰還」
頭の中で20年、一時たりとも離れない文字が再び現れた。薄れかかるとまた色濃く塗り直される。しばらくその話題が上がることが無かったので安心していたが、昨日はあった。母校での講義だけに、そういうことはないだろうと根拠のない安心感があっただけに今日は寝覚めが悪い。
とりあえず岸場はベッドからおりて時間を確認し階下に下りた。午前6時、隣のベッドは既に誰もいない――。
「おはよう――」
「あら、起きられましたか」
「ああ――」
岸場は食卓に座り卓上にある新聞を広げた。目ぼしい記事は見当たらない。今日も蒸し暑い一日になるようだ。
「あなた、昨日はかなりうなされていましたよ」
心配そうに岸場の顔を見るのは妻の恵だった。彼女とは15も年が離れていて、時々親子に間違われることがあるが正真正銘のお互い初婚の夫婦だ。つまり、岸場が結婚をしたのが遅かったということになる。
それもそのはずである。20年前にエベレスト登頂をした頃の岸場は一年のほとんどを山で生活をしていて、結婚というものにはまるで興味がなかった。それが10年前の40を過ぎたある時、恵との結婚を決めた。以来アドバイザーの仕事は続けているが、パーティを組んで長期間家を開けるような登山は行っていない。
「そうか、やっぱり、うなされていたか」
原因はわかっている。20年前のあの時の記憶が甦ったのだ。
back from the beyond
(「天国(あの世)」からの生還)
自分の中でそう呼んでいる出来事だ。
あの時の夏、確かに岸場は世界最高峰の登頂に成功した。シェルパ二人を含めて登頂したのは五人。しかし、帰還したのは四人だったという避けることのできない厳しい現実である。
「あれは、あれは……」
手から汗が噴き出して来た。あの時の出来事を乗り越えられていない自分がわかっている。悔しいとか、未熟だとか、そんな簡単な表現では片付けることができない。
「わかってますよ、事故だったんですよね」
「ああ――」
恵は世界中の山を渡り歩いた頃の登山家だった頃の夫を知らないが、彼からは20年前のサガルマータ登頂後の下山途中で滑落があったということだけ聞いている。彼女が知っているのはそれくらいで、当時の新聞記事と大きく変わらない。
恵にとっての岸場は初心者から経験者まで、登山を楽しむためのイロハを教える先生みたいなものと思っている。彼女自身も教えてもらった者の一人だ。富士山には登ったことはあるが、海外や、冬の厳しい時期や高地に適応するため何日も山上生活するような登山は経験したことがない。
「お弁当、できてますよ。今日も気をつけて行ってらっしゃい」
「ああ、いつも、悪いね」岸場は弁当を受けとるとすぐに通勤用のかばんに入れた「ところで、美由希は?」
「まだ眠ってますよ」
五歳になる娘を呼ぶが、どうやら二度寝を始めたみたいだ。一階の子供部屋でおもちゃに囲まれて嬉しそうな寝顔をこちらに向けている。
「そうか、じゃあ行ってくるよ」
岸場は静かに玄関のドアを開けると、夏のうだるような熱気とセミの鳴き声が家の中に飛び込んできた――。