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短編集5

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 それは一つのことに限らない。毎日が新しいことで新鮮である反面、新しいことが多ければ多いほど、その中に潜在している不満も多くなる。毎日が不満の積み重ねかも知れない。
 そんな時、同期入社の渡瀬を羨ましく思う。
――やつみたいに、余計なことを考えずに仕事ができればさぞかしいいんだろうな――
 仕事を覚えるのに必死で、他のことを考える余裕などないだろうからである。何しろ私が毎日貯めている不満のほとんどは何らかの形で「人間関係」が絡んでくるからである。
 そんな頃、私はまた女と知り合った。
 矢島さつきという名のその女は、彼女の方から私に近づいてきた。もし会社に不満もなく、本当に順風満帆な生活をしていたら、さつきと付き合うようなことはなかったであろう。
 別にさつきが悪い女というわけではない。一緒にいて楽しいし、とても私に尽くしてくれる。だが彼女から私が得るものはないような気がして仕方がなかった。
 さつきと付き合いだしてからであろうか? またしても私の悪い癖が顔を出し始めた。それは人の噂話をすることである。
 それでも最初はそれぞれの部屋で愚痴を零す程度だったのだが、途中からエスカレートしてきて、会社を一歩離れれば、そこが公園であろうが、喫茶店であろうが、噂話に花が咲いた。
 元々さつきも愚痴や噂話のネタを仕入れるのは得意なようで、かなり先輩女性社員から聞き出していたようだ。お互い時間を忘れて話し込むことなどしばしばで、デートだとうことも忘れるくらいであった。
 そんなことが続くようになってから、私の性格が少し変わってきた。いや、変わってきたというよりも、元々そういうタイプの性格も潜在していたのかも知れない。
――何となく私自身、どこかで噂されている気がする――
 きっかけは一人で入った喫茶店だった。
 いつもは馴染みの喫茶店にしか行かないのだが、たまたま営業の途中で喉が渇いて見つけた喫茶店、まったくの飛び込みだった。
 その日は秋とはいえ珍しく暑い日で、まるで真夏を思わせた。日差しがかなり強く、これでもかと照らしつけるため、アスファルトの照り返しを含め、上と下からの猛烈な照り返しに正直参っていた。
「ふぅ、暑い暑い」
 無意識に手のひらで顔を仰いでしまっていたようだが、中に入ると効いているクーラーに落ち着いたのか、座った瞬間汗が噴き出してきた。ネクタイを無造作に掴み必死で緩めると、ワイシャツの一番上のボタンを急いで外した。ここまでは一連で一気に行われた行動だった。
「アイスコーヒー」
 メニューを見ることもなく、注文を聞きに来たウエイトレスにそれだけいうと、初めて落ち着いた気分になった。すると先ほどまで感じなかった店内の喧騒とした雰囲気が一気に耳に飛び込んできたのだ。
 暑さのためか入ってきた瞬間は耳の奥がまるで真空状態のようで、表と店内の温度差もあって、静かな中に超音波のような耳鳴りの音と、激しく脈打つ胸の鼓動しか聞こえていなかったのだ。しかし落ち着くと耳鳴りは消え、やっと元に戻った自分だったが、それだけに聞こえてくる音はとても喧騒としたものだった。
 思わずあたりを見渡した私は、何人かの視線を感じたからである。
 しかしあたりを見渡すが、みんな自分たちの話に夢中になっていて、馬鹿笑いをしている連中やデートでの利用くらいで、私を見つめる視線などありそうにもなかった。
「気のせいなのだろうか?」
 思わず呟いたが、驚いたのは喧騒とした雰囲気からてっきり店内は客でいっぱいかと思っていたが、テーブルに何組かしかいなかったことである。確かに大きな声で騒いでいる学生風の連中もいるにはいるが、アツアツムードのデートにはもってこいの店内にアベックが自分たちの世界を作っていた。
 入ってきた瞬間に感じた広さにくらべ、実際に落ち着いてあたりを見渡した店内はさらに広く感じられた。白壁の綺麗な外装に、中は木目調を基調にした内装は私の好みとも合致していた。本来ならゆっくり来てみたいところである。
――こんな雰囲気の店は自分ひとりで来てみたい――
 これが私の感想である。
 確かにデートにはもってこいなのだが、なぜかさつきと一緒に来ようとは思わない。目を瞑って想像してみるが、どう考えてもさつきがこの店で私の隣に座っている光景が思い浮かばないのだ。
 少し天井が高いのか、まわりの声が篭ったように聞こえる。まるで銭湯のようであり、少しの声でも大きく聞こえるのはそのためだった。
 最初はいろいろな声が反響して、喧騒をしたものしか感じなかったが、そのうち、一組の話が私の耳を刺激し始めた。
 いろいろな話を一瞬にして聞き取れる聖徳太子のような能力もなく、そのためにざわついたこの雰囲気を、甘んじて受けなければならないと思っていたのに、不思議なことだった。
「人の噂話って嫌よねぇ」
「ええ、私も本当は嫌いなのよ。でもどうしてかしら? しないと気持ち悪くて」
「きっと人のいいところを見るというよりも、悪いところばかりを見ているからだと思うわ。そして、それを自分と比較して、自分よりひどいと思ったら、それが噂話となるのかも知れないわね」
 何とも、もっともな話である。話しているとおり私も噂話をする時というのは、必ず自分に噂の人と照らし合わせている。それが意識的であっても無意識にであっても、同じことではないだろうか?
 その話を聞いているうちに、
――きっと自分も他の人から噂されている。今までは気付かなかっただけだ――
 と思うようになった。
「する方はされることを意外と分からないものである」
 とはよく言ったもので、もし自分の性格で猜疑心が強いと思うようになった時期があったとすれば、この時だろう。
 猜疑心が強いなど、それまでに感じたこともなかった。もちろん、被害妄想に陥ったこともなく、それが猜疑心を引き起こすものだということを考えたこともなかった。
 だんだん、自分が嫌なタイプの人間に思えてきた。
 その頃から私は頻繁に鏡を見るようになっていた。それまでも鏡を見ていたが、それはある程度漠然と無意識に見ていたものだ。しかし最近は自分の意志でもって鏡を見に行っている。そこに写る自分を明らかに意識しているのだ。
――本当に若く見えてくる。だんだんと若返っていくかのようだ――
 それはいいことなのだろうか?
 確かに鏡は真実を写し出すものであるから、若く見えるということは喜ばしいことには違いない。しかもその表情は、自分が他人だったらきっと好感が持てるであろうと思えるような表情である。思わず鏡に向かって微笑みかけている自分に対し、当然のことながら微笑み返してくる鏡の中の自分に、感動を覚えていた。
 しかしその度に、嫌な予感が走るのはなぜだろう?
 以前に自分の声をテープレコーダーで聞いたことがあった。
「え? これ誰?」
「お前の声じゃないか」
「えっ?」
 確かにセリフに聞き覚えがある。自分が話した言葉だった。なぜその時友人が私の喋った言葉をテープに録音していたかは忘れたが、明らかに自分のセリフだった。
作品名:短編集5 作家名:森本晃次