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短編集4(過去作品)

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 決して人に甘えることのない毅然とした態度、これが綾子の最大の魅力であった。同棲を始めた時でも違和感のなかったことがあっさりとした感じを私に与え、すべての面で綾子が仕切ることの自然な流れを演出していた。
 貧血気味ということさえなければ、スポーツでもやって健康的な生活をしたかったと言っているが、性格的にはまさしくスポーツウーマンであり、あっさりしている。ショートカットがよく似合い、いつも潤んだその目で見つめられると、ドキッとしてしまう時がある。曲がったことが大嫌いというのは彼女に限ったことではないが、しかし彼女の場合を見ていると、万が一浮気などしようものなら後でどんなことになるか想像するだけで恐ろしくなってしまう。もっとも、万に一つも考えられないが……。
 しかし……。万が一というのはちょっとした誤解からでも起こるもの、絶対にないとは言い切れない。元々心配性で取り越し苦労が多いと言われる私にはいつも頭の中に一抹の不安を抱えていることは否定できないでいた。
 そんな思いを続けていると、得てして望まない方向へと流れが進んでいくことがある。
 特に仕事で遅くなった時や、会社の仲間との呑み会で遅くなった時など、帰った時の綾子の様子をほんの少しの変化でも見逃さないようにしようと心掛けている自分がいることに気付く。ちょっとした言動や言葉のアクセントにまで注意を払い、余計に疲れを増幅してないようにと心掛けてはいるが……。
 もちろんそんな私のリアクションがぎこちない行動を誘発させていることも否めなく、綾子としてもどう接していいか、お互いがどこか他人行儀の状態に陥ることも多々あったであろう。
 私とすればあまり気にならなかったが、綾子にとって自分の存在感に疑問を抱くに十分な要素だったのかも知れない。他人に厳しいところがある綾子は、当然自分にも厳しく自分に対して抱いた疑問について、真剣に悩んでいたに違いない。もちろんどこまで深い悩みか知る由もない私にどうすることもできず、少しずつ溝が深まっていったとすればこの時だったであろう。
 そういえば一度彼女が出て行ったことがあった。自分自身への疑問に対して少し考えてみるという手紙を最後に……。彼女を引き止めたいのは山々だったが、私自身冷却期間を置きたいと思っていたことも事実で、結局引き止めるに至らなかった。これで終わりなどということは毛頭思っていなかったし、実際それほど辛くもなかった。
 彼女のいなくなった部屋は閑散として寂しさもあったが、自分の部屋がこれほど広かったのかと思ったくらいのんびりした気分にもなった。しばらく一人もいいかと思ったくらいである。
 しかし私は部屋の模様替えをしようという気にはなれず、いつでも綾子が帰ってきてもいい程度の掃除しかしなかった。帰宅して部屋のキーを回す時、どうかすれば部屋の中から暖かい空気とともに香辛料の香りが溢れてくるのではという妄想に近い錯覚を覚えることもある。

 そろそろ朝夕、少し寒くなり始めた九月下旬、道を歩いているとコオロギなど秋の虫によるシンフォニーがどこからともなく聞こえてくるのを感じる頃である。一年の中でこの時期ほど街灯がいらないのではと思う時期もなく、しばし立ち止まってポッカリと浮かんだお盆のような月を鑑賞していたくなっていた。
 時折吹き抜ける風は心地よく、空を見上げているといつも近くに見えている山々でさえ月と同じ平面上に見えるから不思議だった。
 月を見上げながらゆっくり歩いていると、月も自分と同じように移動している。微動だにしない山々を背景にしばらく歩いた。
 当然車には気をつけるようにしながら時々前方に気を配っていたが、前から近づいてくる人物には正直気が付かなかった。どうやら相手も同じ行動を取っていたようで、寸での距離まで来た時どちらからともなく気が付いたのだ。
「あれ?」
 しばし見つめ合っていたが、発声した時点ではお互い笑顔となった。そこには懐かしさが一杯で、月明かりに照らされたその笑顔は今までに知っているどんな笑顔よりも素敵だった。
「綾子、どうして?」
「ふふふ」
 綾子は私の問いに答えず、笑っていた。彼女の側で予感があったのだろうか?
「きれいなお月様ね。あなたならきっと同じ月を見ていると思ったわ」
 私が感動したとすれば、彼女のその言葉だったであろう。月を見ながら私のことをすっと想っていてくれたのだと感じただけで、頭の中は綾子以外を考えられなくなった。
 近くにある一級河川の河川敷、昼間にのんびり横になったことはあるが、夜月を見るのにも最高である。生えそろった草が夜露に濡れ光っているのが印象的だ。
 すべてが無言のうちにことが進み、腰掛けたベンチからただ二人で空を見上げるだけだった。
 自然のうちに握った綾子の手が氷のように冷たい。私の手もかなり冷たかったはずだが、さらに冷たいではないか。
「あなたの手、とても暖かい……」
 そう言って少しずつ寄りかかってくる身体にしっかりとした密着感を感じると、私は肩に重みを感じ、首のすぐ横に綾子の頭があるのを感じた。
 私の心臓の鼓動は頂点に達していた。自然と腕が綾子の腰を抱きしめ、さらにこちらへと手繰り寄せようとする。綾子もそれに反応し身体を摺り寄せる。
 不思議と外気の寒さは感じない。ただ短く単発的に漏れる白い吐息だけが周りの寒さを演出していて、小刻みに震えている綾子をさらに抱きしめたくなる衝動に駆られる。
 なぜか頭の中でシチューが湯気を立てていて、香りが鼻をつくような錯覚にまで陥ってしまった。シチューは綾子の得意料理である。
 私は目を瞑り、シチューに深い思いを寄せていた。
「そろそろ帰りましょうか?」
 耳元で綾子の声がする。ハッと我に返った私はその声に驚き目を開ける。するとどうだろう。今までいたはずの綾子はどこにもおらず、月だけがあたりを明るく照らしていた。周りを眺めたがどこにも人の気配はなく、耳元で囁いていた綾子の声がかすかに頭の中に残っているだけだ。
 寒風が強さを増し、私に襲い掛かる。思わず目を閉じ身体を丸め、何とか寒さに耐えようと必死だった。小刻みに震える身体に容赦なく吹きつける突風、耳元を掠める音はまさしく真冬を思わせるものだった。
 目を開けるとそこは自分の部屋の前であった。記憶が前後しているようで、鍵が合わなかったことを思い出すまでに、しばらく時間が掛かった。
「ええい、もう一度」
 私は鍵穴にキーを差し込んだ。
「あれ?」
 今度は無事に開くではないか。やはり酔って帰ったことで夢でも見ていたのだろうか?
見ていたとしても、なぜか内容までは思い出せない。
 扉を開けると、そこはまさしく自分の部屋。朝出かけたままの状態である。電気が付き明るさが戻ってくると、さっきまでの冷たさが徐々に収まってきたのだろうが、その過程を感じる暇もなかった。
 暖かさを感じてくると、さっきまで忘れていた口内炎の痛みを感じるようになった。口内炎との付き合いの長い私は今が一番辛い時であると分かっているが、それがどれくらい続くものかはその時でないと分からない。夜寝るのも辛い時があるくらいだ。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次