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宿命

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 しかし、それであるならば、目が覚めてから、夢を覚えていないように、すべてを夢の中でのこととして、記憶の奥に封印してしまえばいいのだろう。しかしそれができないということは、何か夢のメカニズムがそういうことになっているのかも知れない。
 夢を夢だけで完結させるには、目が覚めてから、夢の内容が現実世界から、
――思い出してはいけないこと――
 という意識がなければいけない。その例としては、現実に起こったことそのままを夢に見たとすれば、目が覚めてから、記憶の中の昔に起こった出来事と、夢で見たことが混乱してしまわないような作用が働いている。だから、夢から覚めてから、忘れてしまい、覚えていないと感じるに違いない。そう考えると、納得ができ、夢と現実の狭間には大きな壁があるように思えてくるのだった。
 俊三は子供の頃と今とでは、かなり違っているように感じていた。どこかに人生の分岐点があったのだろうが、気付かずにスルーしたと思っているのだ。思い返してもそんなものが見つかるはずもない。見つからないものをわざわざ追いかけて探し出そうというのも、愚の骨頂のように思えたのだ。
 ただ、俊三が子供の頃の重複した意識を夢で何度か感じている。夢の中ではそれなりに違和感もあるのだろうが、実際に目が覚めて、重複したという意識があっても、それを引きづることはない。
――夢だということで、自分を納得させているからだ――
 と考えると、夢に見るのはわざと見させるような力がどこかで働いているからである。
 つまりは、子供の頃の二つの意識は本当に俊三の中に存在するのだろう。
 もし、それを俊三が認めてしまうと、理不尽な感覚がずっと消えないでいることになる。そのことを考えあぐねている間、
――本当に決断してしまわなければならない事象が発生した時、冷静な判断ができるであろうか?
 という思いがないわけでもない。
 俊三の中に、
――夢を覚えているというのは、それなりに覚えているだけの理由が存在しているからなのかも知れない――
 という思いが次第に大きくなっていった。夢というものが、何か自分の中の思いを遂げさせてくれる力になってくれるという考えであった。
 その思いは、実は三十歳代の頃にも持っていた。
 ただ、その頃に見る夢は、未来のことばかりで、過去のことを思い出すことはなかった。未来のことと言っても、目の前の未来のことである。実に小規模な夢で、それくらいなら、夢が思いを叶えてくれても、別に不思議のないことだった。
 いや、夢が叶えてくれるわけではなく、実際に叶うことになる夢を見るだけのことだった。
 さすがに、「予知夢」というほど大げさなものではない。少し考えれば、実現できる夢かどうか分かるからだ。
――実現できる夢だから寝ていて夢に見るのかも知れない――
 要するに、三十歳の頃の夢は、
――都合のいいことを夢に見ていただけ――
 ということになるのではないだろうか。
 その心がどこにあるのかというと、
――自己満足を得たいだけ――
 ということだった。目の前のことが実現したことで、それ以降の人生を繋いでいけるという、
――綱渡りの人生――
 を、正当化したかっただけなのだ。
 それだけ、自分の先の未来についてなど、考えたくもないという思いがあるのかも知れない。考えることの怖さを、三十歳になって感じている。
 俊三は、二十代と三十歳になってからの自分とで一番の大きな違いは、
――人と関わりたくないと思うようになった――
 ということだった。
 別に人見知りだというわけではない。逆に二十代までも人と普通に付き合っていたが、人懐っこかったわけでもない。相手が誰であろうと、普通に接していればよかった二十代までと違い、三十歳になれば、まわりの状況によって、自分の考えを曲げてでも合わさなければいけないということに、ようやく気付いたのだ。
 本当はもっと前から気付いていなければいけなかったのだが、気付かなくても何とかやってこれたことで、気付こうという姿勢がなかったのだ。
 三十代前半は、何とか合わせようとして、自分の中でかなりの無理をしていたようだ。
 しかし、無理もある程度まで我慢してくると、そこから先は、
――いつ開き直るか――
 ということで、その後の態度が変わってくる。
 開き直りにも二種類あって、この場合は、
――長いものには巻かれろ――
 と考えるか、それともあくまで自分の生き方を貫くかということのどちらかということになるであろう。
 俊三は後者を選んだ。
――長いものに巻かれるなんて人生は自分の人生ではない――
 という思いの元、それが自分の今後の考え方の基準になった。まわりの人から、
「あいつは、急に人付き合いが悪くなった」
 と言われるようになったようだが、以前からも人付き合いがよかったわけではなく、人と一緒にいることで、何となく安心感が得られていたという感覚があったからだ。
 確かに安心感はあったに違いないが、その分、同じようにストレスも溜めていた。そのストレスの原因が分からなかったことで、三十歳になってから、急に鬱状態が襲ってくるようになったのだが、鬱状態の自分が最初は嫌いで仕方がなかった。しかし、ストレスが安心感と引き換えに襲ってくるものであることに気が付くと、鬱状態の自分が、
――本当の自分なんじゃないだろうか?
 と思うようになった。
 人と関わることがなくなってから、誰かが近寄ってくると、ついつい避けるようになった。仕事も営業ではなく、デスクワークだったので、本当は人との関わりも大切なのだろうが、
「あの人はとっつきにくい」
 と言われても、それで仕事が滞ることや、それほど困ることはなかった。そんな環境が三十歳以降の俊三を増長させたと言っても過言ではないだろう。
 そんな俊三は、人と関わることで起こるストレスは自分の目に見えていたが、人と関わらないことでもストレスを感じていることには気付かなかった。
 まわりに人が本当にいなければ、感じることのないストレスである。ちなみに、まわりに人が誰もいなくても、ストレスというのは感じるのだろうが、結局は人と関わることでストレスを感じるのであれば、どんな立ち位置に立っていても、違った意味でのストレスは感じることになるのだ。
 俊三はそのことに気付かなかった。だが、まわりに誰もいなくて感じるストレスが形になって現れたのが、鬱状態だった。鬱状態は自己嫌悪から起こったものだと思っている。だから、そこにストレスという考えが入りこむ余地はなかった。少し考えれば、自己嫌悪がストレスから生まれたものであるということはすぐに分かったのだろうが、ストレスの存在を頭から消していた俊三にはありえない考えだった。
 ストレスの存在を認めるということは、自分が人と関わらないという選択をしたことが間違いだったと認めなければいけない。
――同じストレスを感じるなら、どうして人と関わらない道を選んだりしたんだ。それではまるで逃げただけではないか――
 自分の決心を今さら否定して何になるというのだ。それだけはできないと思う俊三だった。
作品名:宿命 作家名:森本晃次