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「お母さんの作ってくれたお弁当をバカにされたからよ」
 と、言えばよかったのだろうが、なぜか言えなかった。子供心にも、
――それを聞いた母親は、どうするだろう?
 と感じたのかも知れない。
――いや、小学二年生で、そこまで頭が回るはずもないわ――
 考えたとすれば、
――これ以上、私が何かを言って、話がこじれるのは嫌だ。私がこの場は黙っていれば、そのうちほとぼりが覚める――
 という程度のことだったように思う。
 それからの楓のまわりの人への態度は、この時に決まったのかも知れない。何があっても、自分から逆らうことはなくなった。苛めに遭っても、言い返したり食って掛かったりしたのは、最初のお弁当がひっくり返ったあの時だけで、それ以降苛めに遭っても、何ら逆らうことはなかった。最初に一度逆らっているだけに、この態度はまわりからすれば、一番苛めの対象になりやすいのかも知れない。
「どうした、最初に逆らったあの時の勢いは何だったんだ?」
 とでも言いたげな表情に見えた。誰もが上から目線で見ている。顔は正面を見ていて、目だけが見下ろしている。その顔はニンマリとしていて、厭らしさを含んだその顔は、恐ろしささえ感じさせる。逆らうことができなくなったのは、その表情を見たからなのだ。
 楓は、今でも小学生の頃の夢を見ることがある。
――一番嫌な記憶のはずなのに――
 本当は忘れていると思っていた思い出だったはずなのに、一度社会人になってから夢を見てしまうと、嫌でも思い出すことになってしまった。一度でも夢を見ると、それから定期的に嫌でも夢に出てくる顔があった。
――誰の顔なのかしら?
 と、最初はピンと来なかったが、何度も見ているうちに、それが子供の頃の自分の顔であることを自覚するようになった。
 自分の顔を覚えているなど普通では考えられないが、あの頃の楓は、毎日のように自分の顔を見ていた。
――昨日と同じ顔だ――
 顔が変わっていることを望んでいたのだろうか。顔が変わっていれば違う人になって、苛められることもないと思っていたのかも知れない。苛めっ子が苛めたくなる理由の一つには、自分の表情が関係しているということを分かっていたのかも知れない。
 それは当たらずとも遠からじだった。苛められなくなってからしばらくして、まるで時効だと思ったのか、当時楓を苛めていた男の子の一人が、
「顔を見るだけで、無性に苛めたくなるからな」
 と呟いたのを、ずっと忘れないでいた。
 当の本人は、無意識に呟いたのだろうが、楓はその言葉を忘れることができなかった。
――やはり苛められる側にもそれなりの理由があるんだわ――
 それは理不尽な理由であることに違いはないが、苛める側の気持ちになれるほど、苛められなくなった楓は、冷静に自己分析ができるようになっていた。むしろ、冷静すぎるほどで、
「彼女は、氷のような精神状態になることがあるみたい」
 と、高校生の頃に、楓のことを評している男の子がいた。面と向かって言われたわけではないが、そんな噂は自然と入ってくるもので、その時は別に何とも思わなかったが、時間が経つにつれて、忘れられない言葉になっていった。
 楓は引っ越してきたのは、会社で何かがあったわけではないが、精神的に引っ越さなければ、このまま何かズルズルと時間だけが流れていくのを感じたからだ。
 高校の頃までであれば、それでもいいと思っていたはずなのに、就職してから何かが変わったというわけではない。かといって、短大時代に変わったという思いもない。
――変わったというよりも、人の影響を受けやすいようになったのが原因なのかも知れないわ――
 高校の頃までは、人の影響を受けることが一番嫌いだった。「自分は自分」というスタンスをずっと保ってきたが、それが小学生の頃の苛められていた自分に対して、反面教師という側面が自分の中にあったからで、その思いも短大に入ったことから、徐々に消えていった。そのおかげなのか、短大に入ると、自分の思いとは裏腹に、まわりから楓に話しかけてくれることが多くなったのである。
 それまでは人と関わることを自らで拒否していたこともあり、まわりから寄ってくるなど、今までの自分からは信じられないようになったことで、今度はこっちからまわりに気を配るようになっていった。
――結構、心地よいものだわ――
 人と関わることを煩わしいと思っていたことが、まるでウソのようである。
 それまで喫茶店になど寄ったこともなかったのに、友達から喫茶店への誘いがあった時など、喜々としてワクワクしたものだった。
「私、喫茶店に入るのって、初めてなの」
「えっ、ウソでしょう?」
 友達のリアクションは、結構すごいものだった。
――初めてだということがどうしてそんなに珍しいのかしら?
 と思ったが、子供の頃も、親と喫茶店に入ったこともなかった。食堂やファミレスなどはあるが、喫茶店に入ることはなかった。
「コーヒーだけ飲むのにお店に入るなんて、時間がもったいない」
 と言っていたのを思い出した。
 ただ、楓の父親の仕事は出版社で編集の仕事をしているらしい。あまり家では仕事の話をしない父親は気難しいところがあり、普段の会話もあまりなかった。だから、「らしい」としか言えないのだが、後になって聞いた話では、当時の仕事では記事を書くこともあったらしく、喫茶店に入ることもあっただろう。ただ、利用するのは、人と一緒の時は、仕事の打ち合わせ、一人で利用する時は、記事を書くためということで、仕事以外での利用はなかったようだ。
 大人になってみれば分かるが、普段から仕事でしか使っていないところに、わざわざ休みの日に家族で行くのは憚りたいという気持ちがあるのだろう。母親も喫茶店に行くような人ではなく、ほとんど買い物以外は家から出ることのない人だったので、喫茶店など無縁だったようだ。
――私は、可哀そうな環境で育ったのかしら。でも、それも仕方がないことなのかも知れないわ――
 と、思うようになっていた。一人で喫茶店に入るのも億劫だし、人と一緒に入っても、何をすればいいのか分からない。最初から喫茶店を避けて通っていたのだ。
 初めて入る喫茶店は新鮮だった。高校の頃は、
――喫茶店に入るなんて、不真面目だわ――
 人と関わりたくないと思っている孤独な性格ならではの発想だったが、短大に入ってみると、遥か昔に感じたことのように、友達ができてからの楓は、考え方だけではなく、見えるものすべての角度が、違って見えてくるようで、世界観が変わったかのように感じるのだった。
 その喫茶店は、表から見ると、白木造りのなっているが、中に入ると、普通の木目調のデザインで、まるで山小屋のような雰囲気だ。天井も高く、ペンションに来たような感覚は、友達と来るだけではなく、一人で佇んでいたい空間でもあった。
 最初の頃は友達と一緒に来ることの方が多かったが、次第に一人でくることの方が多くなった。友達と一緒の時は窓際のテーブル席がほとんどで、一人で来る時は、カウンターの一番奥の席と、自分なりに指定席を決めていた。
作品名:リセット 作家名:森本晃次