短編集1(過去作品)
もう水谷の記憶は完璧に近いくらい回復していて、藤原先生も驚いている。もちろんきっかけは綾子の話を聞いた時、西日の当たるあの部屋に泊まったからであるが、敢えて藤原先生には話さなかった。話せば綾子のことを話さなければならず、彼女のことはなるべく自分の心の中に収めておきたい気がしたからだ。
水谷の記憶が戻るにつれ、中には思い出すのではなかったと思うこともたくさんある。もちろんそれは覚悟の上ではあったが、過去があって今の自分がある。過去がわからないと今の自分もわからないと思っていただけに、記憶を取り戻すこと最優先だった。
一番思い出したくなかったのは弘子から「あなたのために人を殺した」と告白された時だった。その上で自分を強く抱いてほしいという。もちろん強く抱いてあげた。しかし心の中では複雑な思いとともに、何もしてやれない自分への苛立ちもあり、相談してくれなかった彼女への腹立たしさもあった。
そしてもうひとつ、以前療養所でウサギが殺されたという事件があったが、実は私の小学校の頃の記憶の中でウサギを殺したことがあるというのがあった。悪ガキどもに命令されてやむなくではあったが、その時からウサギというと特別な生き物のような気がしていた。そのため捜索にも加わらず、疑われてしまったのだろうし、ウサギたちも本能で彼を嫌っていたのだろう。
しかしそれ以上に印象に残ったことがあった。ナイフを使ったのだが、その時は夕方で、手に持ったナイフに夕日が当たり、ベットリとついた血糊が真っ赤に光っていた。多分夕日に対しての思いはその当たりが起因しているのかも知れない。そして前世というものを考えた最初がいつだったかというと、多分この時だったのだ。
数日後フラリと寄った本屋で、気になる本を見つけた。タイトルは「西日の魔力」とある。
それほど売れている本ではないらしく、ただ漠然と本の背を眺めているだけなら水谷も見逃したかも知れない。無視することがどうしてもできない水谷は、その本を買って帰った。
記憶の戻った水谷は、数日前から自宅に帰っていた。何もかもが懐かしい部屋だったが、弘子との思い出の物を見るたび、胸が痛い。
退院してからしばらくは何も手につかない状態でほとんど家におらず、喫茶店などで時間を潰す毎日だったが、少しずつこの部屋にも以前の暖かさが戻ってきて、生活の匂いが立ち込めはじめた。時々、自炊することもあるくらいで、帰ってくるのが楽しみの時が増えてきた。
買って帰った本をテーブルの上に置き、趣味でもあるコーヒー豆を挽くと、部屋中にその香ばしさが香ってきた。本を読む時にコーヒーがあるとないとでは雰囲気がまるっきり違うのだ。タバコを吸わない水谷は、コーヒーが自分にとって最高の嗜好品だと思っている。
「いい香りだ」
自分の入れたコーヒーに満足しながら、ゆっくりとその本を開いた。
読み込んで行くうちに、思わず唸らずにはおられない箇所がいくつかあり、その度に何度か読み返してみる。この本にとっての一番の理解者は水谷であろう。それがゆえに、他の人ならさらっと流してしまうところもついつい気になり、そこで詰まってしまう。
そう、その内容たるや主人公が記憶を失い、それから今までのことを克明に書かれているではないか。その時の状況もさることながら、感情的なことまで、まるで水谷本人が書いたのではと錯覚しそうである。
(どうしてこんなことまで同じ考えができるのだろう?)
と本来であれば思うはずである。
しかし、そこには水谷があの老人と今のこの世界では会えないことの答えが書かれているのだ。
その本の作者の名前は「水谷義人」といい、執筆活動は「湯浅温泉にて」と書かれている。そしてその本が発表されたのが、水谷が記憶を取り戻したその時だというのは偶然であろうか。
さらにこうも書いている。本の中の水谷と目される主人公が記憶を取り戻した瞬間から、老人の過去は消え、主人公の過去と一致してしまったと……。
そして結末は、この本を読んだ水谷が、今感じていることで終わっているのだった。
( 完 )
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次