Rainy
彼女が震える指を組み合わせ、ぎゅっと握るのが視界の端に見えた。僕はコーヒーを一口一口味わいながら飲み続け、すぐにカップを空にしてしまった。ブラックのままで飲み切るなんて、人生の中で初めてかもしれなかった。
「ごちそうさま。またこのコーヒー、飲みに来ますよ」
「ありがとう」
彼女がそう言って、ふわりと、雲が空の上で虹を描いて流れたように、澄んだ笑顔が浮かんだ。その笑顔は本当に――こう言っては何だけれど、どんな絵画よりも、ブラウン管の中の女性よりも、とても凛とした、魅力的な笑みだった。
僕は思わず彼女の笑顔を凝視し、その表情が胸の奥にどこか痛みを伴って焼き付くのを感じた。
彼女のその笑顔が体に染み渡って火照りを感じさせた時、彼女はポニーテールを揺らして慣れた仕草で礼をした。
「それでは、ごゆっくり」
彼女はどこか嬉しそうに踵を返し、カウンターへと戻っていった。僕は彼女の後姿を見送りながら、どこか胸の奥が脈打って、鼓動が高鳴っていることに気付いた。そんな自分に気付くと、ふと苦笑してしまうのだった。
*
すっかり雨は止み、来店してから三十分ほどで僕は帰り支度を済ませ、レジの前に立つことになった。
「さっきのコーヒー、本当に美味しかったです」
僕が笑いながらそう言うと、ウェイトレスは声を上げて笑い返して「またどうぞ、お立ち寄りくださいね」とカウンターを回って扉に手を掛けた。
「え……あの、やっぱりお代を払いますよ。あんなに美味しいコーヒーをごちそうしてもらったんだから」
「いいんですよ。もうお代以上のものを受け取らせていただいたので、十分です」
僕はもう一度頭を下げ、「それでは」と彼女が開いた扉の向こうへと進んだ。彼女はゆっくりと扉を閉め、再びひんやりとした秋の肌寒さが僕を取り巻いてくる。
でも、今度はあまり寒くはなかった。体の内側でまだ熱が籠っている。そして、その温もりは、コーヒーの熱さだけではなかった。心の火照り、とでも言おうか、とにかく僕はどこか上機嫌で、もう一度その店の看板を見遣った。
そうして少し目を瞠ってしまった。
喫茶店『Fine』
営業時間 午前9時~午後8時
僕はすぐに自分の腕時計を確認する。もう九時三十分を過ぎていた。まさかこんなにも雨宿りに来た客を気遣ってくれるなんて、この店は本当に暖かい場所をお客に提供していた。
少しぐっときながら、僕はもう一度来よう、と密かに心に決めてその店を後にした。店の中に流れていたイーグルスの『言い出せなくて』だけが、僕の心に消えない雨の染みのように刻まれていた。僕は路地裏の道を再び歩き出し、携帯のライトで道先を照らしながら、案外早く大通りに出た。
その喫茶店の名前は、まさしく僕の心に晴天をもたらした。それは彼女の笑顔の晴れ晴れとした清々しさから来ているのかもしれなかった。
*
それから僕は何度もその店を訪れ、休日の度に彼女の笑顔が弾ける様を密かに見守っていた。その日からはあまり話をすることはなく、僕は今日こそは、と勇気を奮おうとするけれど、結局その瞬間が訪れてしまった。
彼女の指に、高価な指輪が嵌められ、確かに僕は自分の想いが線路を隔てた向こう側に乗り出すことができないことを悟ってしまった。
なんて臆病で、馬鹿らしいのだろう。僕はこんなにも彼女の優しさに助けられたのに、自分は何一つとしてできなかったのだ。
それが悔しくて、唇を噛んだ。苦い味を、コーヒーのさらに苦い味で消し去ろうと、カップを口に運んだ。そして、コーヒーを飲むと、隅々までその安心感が広がっていく。
でも、僕には二回目にこの店を訪れた時から、微かな違和感を感じている。
何だか、一番最初に飲んだコーヒーの方が、星の流れる速度よりも速く、僕の心に届いた気がしたからだ。
彼女の父親であるこの店のオーナーが淹れるコーヒーは、僕を変えてしまうほど、とても甘く、苦い、不思議な味を持った飲み物なのだ。
それは今の今まで、僕の心の核心となっていた。でも、もうそれも終わりなのだ。
コーヒーを飲み終えると、僕はそのまま席を立ち、ゆっくりとレジへと近づいていく。すると、気付いた彼女がすぐに僕の前に立ち、会計をしてくれる。僕は彼女の素早い指先の動きを自然と目で追いながら、何度も話し掛けようかと迷った。
そして、イーグルスの名曲の通り、僕は何も言い出せなくて、そのまま店を出る。
店を出る時に、オーナーである彼女の父親が、カウンターから顔を覗かせ、「ありがとうございました!」といつもの熊のように豪快な体つきで声を上げ、僕を送り出してくれた。
僕は閉まってしまったドアを見つめた後、その看板をもう一度眺めた。
営業時間 午前9時~午後8時
僕はその二つの時間を左右に何度も行き来して確認した後、ふっと笑い、店を後にする。
僕も、彼女の優しさを何度も思い描くのをやめて、新しく前へ踏み出そう。
そうとても矛盾したことを考えながら、僕はコーヒーの残り香を彼女の香りに重ねながら、路地裏を抜けて、元の大通りに――元の人生の途上へと戻っていく。
雨の気配はなかったけれど、涙の気配はどこかにあった。
*
それから四か月後、僕は会社で異動が決まり、別の土地に移ることになった。そして、そこで知り合った女性と結婚し、十年後にはもう何人もの部下を持ち、仕事に打ち込む日々を過ごすようになった。子供もできて、毎日幸せに生きてささやかだけれど満ち足りた気分を感じていた。
しかし、『Fine』を去った後も、長い年月の間、彼女のことを思い出す為に何度もイーグルスの『言い出せなくて」を聴いた。彼女が与えてくれたその暖かな時間を思い出すと、僕はその度に頬を緩めて心地良い安心感に包まれることができた。
もうその喫茶店に通うことはなかったけれど、それでも僕は彼女がくれた優しさを誰かに与えることができるように、コーヒーの淹れ方を覚え、妻や子供達に振る舞うようになった。彼女の見せた笑みは、妻や子供達にも花の種子を撒き、微かな面影が彼らの笑顔に咲くようになった。
僕は彼女にいつも感謝の気持ちを、祈るようにして時空を越えて伝えていた。そして、いつの間にか十年もの歳月が経っていた。
そんな中、偶然出張でその街の近くを通ることになり、僕はもう行かないと決めていたけれど、心のどこかでその後悔の念のようなものがしこりとなって残っていた。「行きたい」という気持ちがどこからか湧いてきてしまうのを抑えられなかった。
少しの時間なら、いいだろう、と僕はその店に立ち寄ることを決め、出張の合間に電車を乗り継いでその駅に降り、懐かしい街並みを眺めながら路地裏の道へと進んだ。そうして道を迷わずに、その店へと辿り着いた。
その看板も前より年季がかって煤けていたけれど、どこか懐かしくて思わず掌で撫でてしまう。
僕はドアの前で微かに息を吸った後に、ゆっくりとそれを開いた。