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御手紙 葉
御手紙 葉
novelistID. 61622
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Rainy

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Rainy


 彼女はゆっくりとこちらに近づいてきて、ふと僕のテーブルの前に立つと、いつものようににっこりと笑って、テーブルにカップを降ろした。その仕草は本当にスムーズで、どこか洗練されている。そのきびきびと動く姿を見ていると、見ているこちらまでもが背筋がピンとしてきそうだ。
 そうして彼女が一礼し、戻っていこうとして、僕はふとその笑顔に違和感を覚えた。いつもあんなに顔一杯に笑って挨拶する彼女が、その日はどこか引き攣ったような笑みを見せているように思ったのだ。全くの気の所為かもしれないけれど、彼女を見ているといつもとどこか雰囲気が違った。
 ふわりと彼女の指に光が煌めくのがわかった。何気なく僕はそれを見つめて、そして硬直した。時が止まったように周囲の景色がぼやけ、彼女の左手の薬指に嵌められたその高価そうな指輪へと視線が釘付けになる。彼女はもう片方の指でふとその指輪を撫でると、すぐにカウンターの奥へと戻っていく。
 僕は冷水を浴びせられたようにコーヒーに手を伸ばすことができずにいた。あの指輪はたぶん、本物だろう。誰か大切な人から贈られた、絆の証だ。彼女にはそういう想い人がいて、確かにその人と想いが結びついたのだと、僕でもわかった。
 この店に来る度に彼女が気になって、密かに惹かれていた僕は、その指輪を見ただけでどこか自分の恋が場違いな気がした。彼女に声を掛けることもできず、中途半端にコーヒーの味だけを舌に染み込ませていく休日の一時。それは本当に意味のない、些末事でしかないことのように感じられた。
 もう、この店に通うのもやめよう。僕は何故かそこで尻込みしている所為か、そう思ってしまった。
 そして、その心の中のつぶやきに呼応するかのように、店内にある洋楽が掛かった。
 イーグルスの『言い出せなくて』だ。シュミットが生んだその切ない名曲は、僕の心の中に、消えることのない涙の染みのように刻まれている。その曲を聴いていると、どうしても彼女と初めて会ったあの日のことを思い出してしまう。
 それは、ある大雨が降っていた夜のこと。僕はこの路地裏の道に迷い込み、その喫茶店を見つけた。
 そして、至極の一杯を、また、至極の笑顔を味わうことになる。
 それでも僕は結局そのイーグルスの名曲のように、彼女に言い出せずに終わってしまうのだ。
 雨の日の、空気は肌寒く、どこか虚しい。
 でも、どこかすっきりと冷たくて綺麗だ。

 *

 僕はびしょ濡れで、土砂降りの街を走り続けていた。仕事の関係である家を訪問した帰り、この路地裏の入り組んだ道に入り込んで迷ってしまい、おまけに傘もなく、困り果てていた。雨の勢いは増すばかりで、街灯もなく、濡れたスーツが肌に張り付き、震えていた。
 そんな時、僕は路地裏に淡く浮かび上がるその店の看板に気付いた。それは――。

 喫茶店『Fine』

 まさに天から救いの手が差し伸べられたかのように、雨宿りの場所が見つかった。僕はすぐにその木製の年季がかった扉を開き、中へと体を滑り込ませた。
 カラン、と小気味良いベルの音が鳴り響く。
 中には暖房が効いていて、秋の肌寒い空気から解放された僕は、持っていたハンドタオルで体を拭きながら、やれやれ、と小さくつぶやいた。
「大丈夫ですか?」
 店の奥から声がして振り向くと、バスタオルを持ったウェイトレスの女性がこちらに走り寄ってきた。おでこを出したそのポニーテールの女性は歳は僕と同じくらいだろうか、活発そうなきらきらした目に、ツヤの良いすべすべした白い肌をしていた。
 とても健康そうで、明るい活発な雰囲気をしたウェイトレスだった。
「これ、使って下さい。そのままだと、風邪を引いてしまいます」
 バスタオルを差し出され、僕は「ありがとうございます」と有難く使わせてもらい、人心地ついた。顔をようやく上げて店内を見渡すと、こぢんまりとした喫茶店で、ソファ席がいくつかと、古い椅子とテーブル、カウンター席があまり間隔を開けずに備え付けられていた。
 店内にはひっそりとした洋楽が掛かっていた。暖色の壁に品のある絵が掛けられ、どこか淡い照明が暖かな雰囲気を作っている。僕はどこかその店が気に入ったような気がした。ウェイトレスへと振り向き、「しばらくここにいさせてもらっても宜しいですか?」と頭を下げながら言った。
「もちろんですよ。予報では、営業時間が終わる頃には雨はすっかり止んでいると思うので、それまでゆっくりしていって下さい」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 僕はバスタオルを返して 店の中央まで来て、とりあえず客は他に誰もいなかったので、広いソファ席に座らせてもらうことにした。仕事の帰りにとんだ災難だと思っていたけれど、こうして感じの良さそうな喫茶店に立ち寄ってみると、これは逆に幸運だったかもしれない、と場違いなことを思った。
 鞄を置き、スーツを脱いで近くの椅子に掛けて乾かしながら、ふと厨房の方で店員らしき二人の男女の話し声が聞こえてきた。
「お願いだから……」
 どこか嘆願するようなその声は、先程の女性のものだ。涙ぐんでいるような切実な声で、僕は何だろうと顔を上げて厨房の奥を見遣ったけれど、姿は見えなかった。
「わかった。好きにするといい」
 年輩の男性の声だ。そのどこか風格のある声は、もしかしたらこの店のオーナーのものかもしれない。
 それきり声は聞こえなくなったので、僕は気にせずメニューを眺めていたけれど、そこでふとカウンターから先程のウェイトレスがきびきびと現れ、トレイを持ちながらこちらに近寄ってくるのが見えた。
「あ、じゃあ注文をお願いします」
 僕はそう言いかけて、彼女がトレイの上にコーヒーの入ったカップを載せていることに気付いた。まさかとは思ったけれど、彼女は先程よりどこか硬い表情で、何故か声を震わせながら言った。
「どうぞ、サービスです」
 そう言ってコーヒーカップをテーブルに降ろそうとするけれど、コーヒーの水面が揺れて、彼女が緊張していることに気付いた。僕はどうしたんだろう、と彼女の顔を見遣ったけれど、彼女は「熱いうちにお飲みくださいね」と笑っている。
「いや、でも……いいんですか、本当に」
「こういう時に飲むコーヒーこそ、あったまりますよ」
 彼女はそう言ってじっと僕がコーヒーカップを握るのを見つめている。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 すっとカップを持ち上げて、コーヒーに口を付ける。

 瞬間――。

 美味しい、とまず最初に言葉が零れた。それは夜の闇を切り裂く閃光のような、はっきりとした味覚だった。
「美味しい。これは本当に美味しいです」
 僕は何度もカップに口を付けて、自然とうなずいてしまう。
「普段コーヒーなんて飲まないんですが、これは本当に美味しい。こういうコーヒーも、あるんですね。驚いた」
 彼女はふっと体の力みを解き、その瞬間、花が咲いたような満面の笑みでうなずいてみせた。
「ありがとうございます。その言葉だけでも、出した甲斐がありました」
作品名:Rainy 作家名:御手紙 葉