Rainy
すると、年輩の男性が顔を覗かせて、「いらっしゃいませ!」と野太い挨拶の声が店内に響き渡った。僕は軽く会釈を返す。その店のオーナーは前よりも老け込んでしまったけれど、それでもその営業スマイルはあの時と全く何も変わっていなかった。
僕は彼のその懐かしい姿を目にして、胸が熱くなった。
そして、そのウェイトレスが振り向いた。僕は彼女を見つめて、鼓動が跳ね上がった。
「いらっしゃいませ!」
すぐに口元が緩んでいくのがわかったけれど、そのウェイトレスの顔を確認して、ふと笑みが消えた。
そのウェイトレスは、彼女ではなかった。まだまだ若い、どこか初々しいような女性店員だった。
僕は店内を見回しながら奥へと進んだが、他に店員の姿はなかった。ゆっくりと立ち止まり、逡巡したけれど、意を決してカウンター席へと進んだ。
「いらっしゃいませ! 何に致しますか?」
そのウェイトレスが近づいてきて、僕に笑顔でメニューを手渡して聞いてくる。僕はそれをちらりと見た後、すぐに「ブレンドコーヒーで」と笑顔を返して言った。
彼女は注文を復唱し、きびきびとカウンターを回って奥へと入っていった。僕は彼女のそうした活き活きとした様子を見つめた後、ふと店主へと向き直った。そして、少し躊躇ったけれど、はっきりとした声音で囁いた。
「少し、話しても宜しいですか?」
カウンター席にはちょうどお客がおらず、オーナーはふとサンドイッチを作っていた手を止めて、笑顔のまま振り向いた。
「……貴方は、」
オーナーは僕の顔をじっと見つめて、どこか見覚えがあったのだろう、必死に記憶を辿っている様子だった。少しだけ困惑した表情を浮かべ、「どこかで、お会いしましたか?」とつぶやいた。
「今から十年前、毎週この店に通っていた者です」
そこで店主が「あ」と思い出したようにうなずいた。
「貴方、でしたか!」
「覚えているんですか?」
僕のことを覚えていたことに、驚いてしまった。言葉など交わしたことがなかったので、他の常連客よりはるかに印象の薄い若者だったはずだ。それでもこうして思い入れのある店のオーナーに顔を覚えられていたことに、思わず頬が綻んでしまう。
「娘がよく話していたものでね」
僕の胸がその瞬間に、大きく跳ねるのがわかった。
「あのウェイトレスの方ですよね? 今は、どこに?」
オーナーはふと寂しそうに笑って、視線を伏せた。
「自分で喫茶店を開き、経営しています」
「そうなんですか? すごいじゃないですか!」
思わず大きな声を上げてしまうのを抑えられなかった。その話は初耳で、僕にとってどこか嬉しいサプライズだった。
「この店に勤めている時に、毎日コーヒーを淹れて、試行錯誤していたみたいで、自分の淹れたコーヒーを店に出してみたいってある日言ってきてね。でも、私はそれを許さなかったんです。店のコーヒーの味は決まっているから、と。でもね、」
オーナーはそこで言葉を切り、僕をじっと見つめた。
「その日は大雨が降っていて、もう閉店の時間になっていた頃、あるお客様が来店したんです。娘はそのお客様を店に通して、私に頼み込みました。『私の淹れたコーヒーを、あの人に出させて欲しい』、と。了承して出させたのですが、その人が『本当に美味しい』と驚いているのを見て、すごく喜んでいたんす。貴方が店から去った後も、ずっと涙を流して喜んでいました。それから娘は何度も自分のコーヒーを出させて欲しいと頼んできましたが、営業中は決して出させませんでした」
そこでオーナーは自分の左手の薬指を見つめた。僕はそこに指輪が嵌められていることに気付いた。
彼女のしていた指輪にとても似ているような気がした。こんなに長い年月が経っても、その予感だけははっきりと胸の中で確かめることができた。もしかして、
「私の妻が他界してしまったんです。娘は悲しみ、自分のコーヒーを毎日飲んで感想を聞かせてくれた彼女の死にショックを受けている様子でした。だから、彼女が亡くなった後、母の形見である指輪を、いつも身に付けていたんです」
僕の心の中に築かれていた堰が壊れて、それまで抑えていた感情が止め処もなく流れていく。あれは、彼女のお母さんの形見だったのだ。僕が勝手に思い込んで、彼女への想いを無残に捨て去って、この店から出て行って――。
「その頃から、貴方がこの店に来なくなったのを覚えています。娘はよく、あの人にもう一度自分の淹れたコーヒーを飲んでもらいたかった、と零していました」
オーナーはどこか苦々しく微笑み、視線をまな板に向けたまま、指を組み合わせた。
「娘は一人で店を開くことを決めたんです。それからは私もバイトを雇い、店を続けてきました。でも、こうしてまた貴方が来てくれて、娘も喜んでいると思います」
そこで先程の若いウェイトレスがコーヒーカップを運んできて、僕の前に置いた。
僕は少し首を傾げる。オーナーは今、全くコーヒーを淹れていなかったからだ。
僕は「いただきます」とコーヒーカップを握り、唇に運んだ。そして――。
薔薇の花がふわりと宙を流れ、視界を過ったのを感じた。
「この、コーヒー……」
「どうですか?」とオーナーが笑った。その笑みはどこか悪戯っぽくて、そして少しだけ寂しげで、僕はその味を何度も舌の奥で確かめながら、呆然と零した。
「あの時と同じものです」
「実はね……ここにいるウェイトレスが淹れたコーヒーなんです。彼女は娘の店でアルバイトをしていて。娘と和解したこともあって、従業員不足であることを気遣ってくれて、彼女を寄越してくれたんです」
僕はしばらく唇を開いたまま、どんな言葉も零すことができなかった。あまりに様々な想いがこみ上げてきて、ただその言葉を伝えることで精一杯だった。
「その店に行ってみたいと思います。店の名前、何て言うんですか?」
「是非、行ってみて下さい。その店の名前は――」
オーナーがつぶやいたその名前を聞き、僕はあの雨の日のことを思い出し――素敵な名前だと自分の思い出に重ねてふっと微笑んだ。
-Rainy- 了