詩集【紡ぎ詩Ⅳ】~始まりの季節~
早朝 登校する息子を見送りに庭に出る
―行ってらっしゃい、気をつけてね。
早いもので入学式から三年
気づかない間にひとまわり逞しくなった息子の背中が
見えなくなるまで見送った
すべてのものが鈍色に沈み込んだ風景の中
白い息が真冬の凍てつく大気に溶けてゆく
―ああ、寒い。
呟いて小走りに屋内に駆け込もうとした瞬間
視界の片隅を鮮やかな色彩がよぎった
思わず振り返らずにはいられず
呼び止められるかのように視線を向けたその先に
艶やかな紅椿が寒風に揺れている
小さな小さな今年初めての紅椿
まるで その場所だけポッとささやかな灯りを点したように明るい
そこにあるだけで
誰かの心をこんな風に暖めることができる
小さな花一つに大きな力があることを知った
何かとても幸せな持ちになって
スキップしながら家に戻ろうとして
もう一度だけ後ろを見たら
小さな炎を宿した紅い花が
灰色の景色の中でひときわ際立って輝いていた
この季節最初にひらいた花が
今日一日を生きる私の心まで照らしてくれるようだ
☆「〝くろちゃん〟のひなたぼっこ」
陽差しの渦の真ん中に黒猫が座っている
わずかに温かさを感じさせるようになった早春の陽射しを浴び
丸くなった背中を更に縮めるようにして
ちょこんと前脚をそろえる姿はとても愛らしい
―あ、くろちゃんだ!
中学生の娘が見つけて叫ぶ
いつからともなく我が家に住み着いたこの野良猫を
私は〝くろちゃん〟と名付けた
丁度 私たち母子は買い物に出かけようとして
自転車でくろちゃんのすぐ傍を通っても
〝彼女〟はピクリとも動かず
相変わらず のんびりとひなたぼっこをしている
こんなに人慣れしている野良も珍しい
我が家の庭には私が子どもの頃から
幾世代にも渡って野良猫が住み着いているが
どんな猫も人が少しでも近づこうものなら飛ぶように逃げていった
くろちゃんの前には小さな石の水槽があり
二匹の金魚が泳いでいる
じいっと金魚を眺めているくろちゃんの心中は判らない
―くろちゃん、金魚は食べてはいけませんよ。
声をかけると
よく判ったのか判らないような表情をしていた
私に続いて娘が自転車で横を通ると
今度はほんの少しだけ小さな体を動かした
―この子、大丈夫かな? 逃げなくても良いかしら。
くろちゃんは娘の顔をしばらく窺うように見上げている
やがて安心だと判ったのか
また ちょこんと座り直した
つい最近
黒猫が登場する小説作品を書いた
思えば自作小説の猫も〝くろちゃん〟だ
どうも安易に名前をつけがちなのかもしれない
いささかの反省をこめて くろゃんを見ると
〝彼女〟は春先の透明な陽差しを浴びて
気持ちよさげに伸びをしていた
もしかしたら
無意識の中に〝くろちゃん〟が小説の中の猫のモデルになったかもしれないと思いつつ
―くろちゃん、行ってくるね。
まだ同じ場所に座る黒猫に挨拶して出かけた
☆「予感~春の訪れ~」
キンと肌に刺すような冷たさを大気が含む早朝
白い息を吐きつつ
最寄りの可燃ゴミ捨て場に向かう
既に早起きの人たちが出したゴミが幾つか並んでいる
その帰り道 ふと顔を上げれば
輝く日輪が真上に大きく昇り
溢れ出すような光を放っている
そういえば
今年の早春は
毎年 楽しみにしている白木蓮の開花をあまり確かめていない
理由は一つ
我が家の子どもたちの卒業シーズンをずっと彩ってくれた
想い出深いこの花が満開になれば
息子が親元を巣立つ日が来るからだ
花の咲くのが一日でも遅ければ良いと思ったのは初めてだ
しかし今朝は何故か
この花の蕾を見たい気がして
ゴミ捨て場から真っすぐに庭に向かう
花を見た刹那
ああとも おおとも
取れない叫びが洩れそうになる
白木蓮に無数についたあまたの蕾は大きく膨らんで
早いものは既に表面の皮が割れて
中の白い花びらが覗いていた
束の間
瞼に一斉にひらいた白い浄らかな花たちの姿が鮮やかに浮かび上がる
春を待つ蕾たちの上には眩しいばかりの巨きな太陽
今日 息子は遠方まで大学受験に行っている
―悔いのないように力を出し切ってきてね
その言葉だけで見送った
若い彼もまた これから咲こうしている花と同じように
新しい人生の門出を迎えようとしているのだろう
二月下旬
近づいてくる春のひそやかな足音を敏感に聞き取り
花たちは開花の準備を着実に始めていた
☆「言葉にならない」
庭の白木蓮が満開になった
君の旅立ちの日まであと二週間
三月初めに大学の合格通知が来てから
あと何日ある、何日あるとカレンダーを毎日見るのが日課になった
我が子の巣立ちを前にすると
母親って皆こんな気持ちになるのかなと
自分がはるか昔 高校を卒業して親元を巣立ったときのことを思い出した
嬉しさ半分 淋しさ半分
本音をいえば この寂しがり屋のどうしようもない母は
嬉しさ20% 淋しさ80%かもしれない
思えば私の母は強かった
私は一人っ子
しかも親元を離れる直前 父が突如として亡くなった
そんな中でも笑顔で見送ってくれた
私には まだ三人の娘たちがいるのに
毎日ため息ばかりついている
けれど お姉ちゃんや妹たちがいても
君の代わりは誰にもなれない
母はそんな風にも思うのです
今の自分に私を見送ってくれた母のような勇気は到底ない
毎日カレンダーを眺めては涙ばかりだ
旅立つ息子を見送るに際して
想いを言葉に託したいと思ったけれど
何も浮かんでこない
―言葉にならない―
本当に言葉にならない
たくさんの想いは心の中でバラバラになって舞っているのに
どの言葉も今の自分の気持ちには今一つのようで
ならば 心の赴くままに言葉を並べていけば良いと
半ば開き直った
庭の白木蓮は我が家の子どもたちの卒業写真を彩ってきてくれた
今年初めての花がひらいた朝
合格通知が届いた
冬に天から舞い降りる穢れなき雪のような色の花たちが
今 巣立ちゆく君を見送ってくれる
どうか身体に気をつけて立派なお坊さんになって帰ってきて欲しい
あなたの行く末に幸いだけがあることを
母は祈っています
こうして書いていると
言葉よりも涙が溢れてきて
本当に言葉にならない
成長する我が子を見送る母親の気持ちが
今 漸く判った―
春まだ浅い日 清浄とした色に染まった花たちを眺めながら
君のゆく末に想いを馳せる
☆「春の足音」
そろそろ各地で花便りが聞こえ始めた。この季節になると、必ず思い出す出来事がある。今から三十年余り前、初めて親元を離れて京都に移り住んだ。京都の女子大に行くのは二月には決まっていたが、住み慣れた故郷を離れるという意識がにわかに現実化したのは、実は三月半ば過ぎてからであった。
春まだ浅い早朝、ピィーと澄んだ大気を震わせて聞こえてくるのは、最寄り駅を通過する列車の音だった。空気が澄んでいるので、列車がレールを走る音が自宅まで聞こえてくるのだ。目覚めの床の中で、その音があたかも自分を故郷から見知らぬ遠い場所へと連れてゆく使者の足音のように思えてならなかった。
作品名:詩集【紡ぎ詩Ⅳ】~始まりの季節~ 作家名:東 めぐみ