半分夢幻の副作用
コンサートが終わり、人が皆立ち上がると、梨乃も立ち上がろうとしたが、瑞穂はなかなか動こうとしない。
「どうしたの?」
「あの人ごみの中に入りたくないの。最後に出ましょう」
席がちょうど、両側の通路から見て中央部分だったこともあって、二人はすぐに立ち上がる必要はなかった。
「ええ、いいわよ」
と言って、立ち上がった腰を、もう一度下ろした。
「ごめんね。ちょっと疲れちゃったみたい」
瑞穂は少し疲れ気味に見えた。
確かにコンサートホールの中は、中途半端に暖かく、人の気配も十分に感じられることもあって、ステージに集中できないでいれば、緊張感が湧き上がり、汗が滲み出るくらいの雰囲気に包まれるかも知れない。
その気持ちは分からなくなかった。暗い場所で、大きな場所ではあるが、閉鎖された場所である。そんな状態で集中力が一旦切れてしまったら、少し気分が悪くなることも十分に考えられる。すぐに立ち上がれない気持ちも分かるというものだ。
「そろそろ行く?」
掃除の人と、警備員が見回りにやってくるのを見て、梨乃は声を掛けた。
「ええ、だいぶいいみたい」
本当はこれから、少し飲みに行こうという話を最初にしていたのだが、どうもそうも行かないようだ。
表に出てから、
「深呼吸してみればいいわ」
と言って、まず梨乃が自分から深呼吸した。横を見ると瑞穂も深呼吸をしている。
「深呼吸っていいでしょう?」
「ええ、何か久しぶり」
梨乃は、毎日深呼吸をしている。それも、スケジュールの合間に深呼吸をするようにしているのだが、そのほとんどは、自然と出てくるものだった。
――深呼吸が自然に出てくるというのは、それだけ充実した毎日を過ごしてる証拠なんだわ――
といつも思っている。瑞穂に深呼吸を勧めたのもそのためだ。
――深呼吸が自然に出てこないなんて、可哀そう――
同情にも似た気持ちの中に、少しだけ優越感を感じた梨乃だった。そしてその瞬間、自分が優越感をその日、欲していたことに気が付いた。人と一緒にいる時に感じてしまう優越感。本当はあまり好きではなかったのだ。
梨乃は結局、そのまま帰るという瑞穂を家の近くまで送り、その後、家路に向かうことにした。
あまり通ったことのない場所だったので、なるべく早く歩いていたつもりである。瑞穂の家は住宅街にあるので、住宅街を抜けると、後は駅まで少しある。普段通らない道を足早に駅を目指した。
だが、一つ気になるところを見つけた。
暗闇に、揺れるような明かりが点いている。まるで行灯のような明かりは、易者の明かりだったのだ。
――今時珍しいわね――
普段から易者など見たことがない。大学では占い研究部というのがあり、一度誘われた入ったことがあったが、気になりながら、
――自分には関係ない――
と、敢えて気になっていた気持ちを打ち消した。
今回ここで見かけるのも、何かの縁かも知れないと思った梨乃は、引き寄せられるように寄って行ったのだ。
それは明かりに引き寄せられたのか、匂いに引き寄せられたのか分からない。何かお香のような香りがしてきたのだ。
中国のお香に対しては、少し造詣が深かった。自分の部屋でもリラックスできるというお香を買ってきて、焚いていることが多かった。勉強をしている時間、お香の匂いは意外と集中力を高めてくれ、思ったよりも捗るのだ。リラックスと捗る気持ちとは、意外と紙一重なのかも知れない。
紙一重といえば、長所と短所をすぐに思い出す。相容れないものの代表のような気がするのに、紙一重というのは、やはり平行線のようなものなのかも知れないと思った。
――決して交わることのないが、離れることもない。それを紙一重の状態であるなら、長所と短所も、平行線のようなものだと言えるのではないか――
と感じるのだった。
占い師は、テレビドラマで見るような格好をしている。
――まるで昭和の時代のようだわ――
昭和の時代を知るはずのない梨乃がそう思ったのは、今の梨乃の中に、もう一人誰かがいて、梨乃の視線を使って、一緒に見ているような感覚に襲われたからだ。
――今までにも感じたことがあるような感覚だわ――
その人は、きっと昭和を知っている人で、占い師に見てもらった経験があるのかも知れない。その時にどんな占いをしてもらったのか興味があるが、梨乃は今自分が見てもらうとすれば、何についてなのか、想像もつかなかった。
今、梨乃は充実した生活を営んでいる。
悪いことを想像して、それを占ってもらうなど、愚の骨頂のような気がした。今は悪いことであっても、すべてがいい方に目を向けて、うまくやっているのだ。
――ではいいことではどうだろう?
いいことでも同じことだ。
せっかくうまく運んでいることをまるで藪を突いてヘビを出すようなことをしたくないというのは真理であろう。
どちらにしても、今占ってもらったことを信じてしまうと、せっかくのいいリズムが崩れてしまうような気がするからだ。
それなのに、梨乃はどうしても気になっていた。
――これって欲なのかしら?
少しでもいいことを言われれば、それがさらなる自信に繋がるとでも思っているのだろうか。もしそうであれば、梨乃はそれを前向きと言えるかどうか、考えていた。前向きだとすれば、今考えを表に出すことで、さらに成長できるのではないかとも感じたのだ。
占い師は梨乃に気付いているのかいないのか、相変わらず無表情で、梨乃を見ようとしない。それがさらに梨乃の中で気にかかって仕方がないことだった。
――この人は、私の何でも知っているような気がするわ――
とも、考えたが、それも信じられない。
――どこまで知っているのかしら?
と、梨乃は考えを改めた。
梨乃にとって、占い師の前に座ることは運命づけられているのではないかと思った時、すでに吸い寄せられるように、占い師の前に座っていた。
梨乃は、
――何か言わなければ――
と思ったが声が出てこない。それを見透かしているかのような笑顔を浮かべ、占い師は言葉を発しようとはしななかった。梨乃の緊張はさらに続いた。
何本かの竹ひごが掛かった木の筒が目の前に見える。占い師は、梨乃が想像しているよりも若かった。梨乃が想像したのは、完全な老人で、口元から顎にかけて、真っ白い髭が生えていて、
――まるで仙人のようだ――
というイメージを漂わせている人だとばかり想像していた。
しかし、目の前に座っている人は、まだ四十歳になったかどうか分からないくらいの、しかも
女性である。
梨乃は人の年齢を判断するのが苦手だ。それは男性よりも女性の方が分からなかった。しかも、行灯のような明かりしかない中で浮かび上がった顔である。なかなか分かるはずもなかった。
最初、占い師は何もしようとはせず、ただ、梨乃の顔を眺めているだけだった。
「手をお出しください」
としばらくして、大きな虫眼鏡を目の前に差し出しながらそういうと、梨乃も吸い寄せられるように自然と手を前に出していた。