俊一郎の人生
若菜は、課長を道連れに自殺するつもりだった。潜在意識の「力」を借りようとしたが、理性がその邪魔をする。一緒に存在しなければ死に切れないのを若菜は分かっていたのだ。
俊一郎に限らず、若菜の方も、
――死に至るためには、潜在意識の中に存在する「力」と理性とが、一緒に表に現れてこないとダメだ――
ということを分かっていた。
それは、妄想という世界の中で、強く死というものを意識するからで、課長だけがよく分かっていなかったのだ。
課長は、死など意識していない。自分が死ぬことなどありえないと考えているくらいだった。
だから、簡単にストーカー行為などできるのだろう。それを分かっている若菜にとって、彼を失ったこと、自分の人生をめちゃくちゃにしてしまったことでの課長への恨みは尋常ではなかったであろう。
俊一郎は若菜の夢の中に入り込んで時、俊一郎だけではなくなっていた。俊一郎と一緒に飛び込んだのが、若菜が付き合っていて。誤って殺してしまった彼だった。
俊一郎は夢の中で意識が交錯した。大学を卒業してからの意識は、すべて若菜の彼のものだった。彼なりに俊一郎の意識と記憶に、なるべく疑問を持たないように力を使っていたのだろう。
ただ、俊一郎が若菜の夢に入り込んだのは偶然ではない。若菜の彼が俊一郎の魂を見つけたからだろう。
俊一郎という男性が選ばれた理由は、
――課長と似た男で平行線を描いているような男性で、さらに、自分が死んだという意識が曖昧で魂が彷徨っている相手――
ということで選ばれたのだ。
なかなかそんな人はいなかったはずだ。それでも彼は見つけてきた。
もちろん、それは若菜のためである。
若菜の中には、彼に対しての一生消せない負い目があった。それを背負わせて生きていかせるには不憫だった。何よりも、彼女の気持ちを安心させてあげないと、自分がこのまま彷徨ってしまうことになる。それは本当は許されないことだった。
彼はまず課長の夢に一度入り込み、課長の理性を擽った。そして、課長が無意識のうちに自ら命を断つように仕向けたのだ。表から見るとただの事故だが。そこに誰かの力が加わったなどというのは、彼しか知らないのだ。
もっとも、彼にとっても、課長への恨みがないわけではない。デッサンを邪魔された恨みは、少なからずそのまま生きていたとしても、課長に対してなくなることはなく、むしろ蓄積して行くものだったはずだからだ。
――俺と課長は、平行線なんだ――
俊一郎が感じたことだった。
課長という人がどんな人なのか、彼の目から感じたことでしか分からない。自分が知っていてどんな風に感じるのかと思うと、少し疑問に感じられたが、俊一郎は課長という人物とは、決して交わることのない人だという認識を持っていた。
俊一郎がストーカー行為をしていたのは、間違いない記憶である。だから、彼が俊一郎を選んだのだろう。ただ、俊一郎と課長が平行線だということを、俊一郎が感じるとは思わなかったようだ。
そこが彼の一つの誤算だったのかも知れない。
俊一郎と一緒に入り込んだ若菜の妄想に対して、若菜の中で、
――気付かれてはいけない二人の存在――
に気付かれてしまったことだ。
若菜は彼が来てくれたことは分かったが、もう一人が分からない。課長だと思ってしまったのも仕方がないことで、課長であれば、夢から逃がすことなく、自分も死を選んでもいいと考えたかも知れない。だが、彼をも巻き込んでしまうと、死んだ後にも、永遠に彼と出会うことができないと思っているのだ。
彼にはそれが分かっていた。
――一体どうしたらいいんだろう?
と悩んだに違いない。
俊一郎だけを追い出すことができればいいのだが、一緒にはいりこんでしまったことで、簡単に追い出すことができなくなった。
方法がないわけではない。
若菜の潜在意識を操作して、若菜を課長のように、無意識に自殺させれば俊一郎の魂は彷徨うしかないからだ。
彼は迷っていた。その迷いが俊一郎に考える隙を与え、そのおかげで俊一郎は、自分が今どうしてこんな中途半端な意識でいるのかということを分かることができたのだ。
俊一郎は、若菜の記憶の操作を思いついた。
要するに、若菜の中にある彼を、自分が殺してしまったという意識を消してしまえばいいのだ。
俊一郎は、若菜の中にある課長がストーカーをしていて自分が殺そうと思ったことを消し去り、ストーカーをしていたのは、大学時代の自分であると思わせようと思った。
もちろん、若菜も同じくらい時代を遡ることになる。
すると、若菜の記憶のそれ以降は封印され、記憶をそこから先失ったまま今を迎えていると思うことになるだろう。
ただ、彼の記憶も消してしまうことにもなるが、彼も、それでいいと思ってくれるに違いない。そうすれば、きっと若菜が死んだ時、あの世で二人は再会できる。それを俊一郎も彼も分かっているからだった……。
「若菜、今日は綺麗な服じゃないか」
朝の出勤時に、若菜の後ろ姿を見かけた一人の男性が声を掛けた。
「ええ、今日はあなたの好きな赤にしたのよ。可愛いでしょう?」
「ああ、昔からお前は赤が好きだったからな。でも、いつも赤ばっかり着るんじゃないぞ。さすがに飽きちまう」
「あなたらしいわね。でも、私に飽きたりしたら承知しないわよ」
「簡単に飽きるくらいなら、幼馴染から今まで一緒にいたりしないさ」
「そうね、私たち、婚約したんですものね」
「そうさ。だから、今日は若菜の最後の出勤日だね」
「ええ、あなたのためにいい奥さんになるように努力する」
「頑張ってくれよ」
「ええ、ありがとう。じゃあ行ってくるね。俊一郎」
そう言って、若菜は会社のあるビルの玄関から颯爽と入って行ったのだ……。
( 完 )
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