浄化
「そういうわけではないが、君の中に大きな記憶領域を作り、そこに僕の記憶を収めるということは、僕という人間を、意識としても、記憶としても封印することになる。君からすれば、僕を抹殺することになるんだが、そのことに君は耐えられるかね?」
言われてハッとした男は考え込んでしまった。
同じ考えを持っている相手、しかもそれは世界が違っても自分なのだ。彼の苦悩は手に取るように分かる。
「しばらく時間をあげよう」
彼が悩んでいるのは、この世界にやってきたもう一人の自分が、浄化しなければいけないと思っていること。そして彼は元の自分の世界が、いずれ破壊と殺戮の世界に変わることを予感できたことであった。
このことは誰に話しても信じてくれないだろう。
世界が冷たい均衡で成り立っていることは、向こうの世界では、一部の人間しか知らない。すべてが平和な世界だと誰もが信じていた。
――そう、今のこっちの世界のように――
そして、そのことに気付いた時は、時すでに遅し、生き残った人たちは、伝説に乗っ取って、浄化に走るのも分かりきっていることだった。
克之は、その状況から逃れようという思いがあるわけではない。自分がまず生き残ることで、いずれ向こうの世界から、同じ考えの人が現れて、自分を再度覚醒してくれると思っていた。それが、砂津だったというわけだ。
今はまだ、そこまで行っていないが、克之の中で次第に覚醒し始めているのも事実だ。そして、同じ考えの元、克之についてきたのが、マリだった。マリも同じようにもう一人の自分の記憶の中に封印されている。
誠のことで訪ねてきたのは、本当の偶然なのかも知れないが、そこに誠が絡んでいることで、砂津は次第に克之とマリのことが分かるようになっていったのも事実だった。
最初から、克之の計算だったのかも知れない。そこまで計算しているとすれば、すごいことだが、それよりも必ず自分の封印を解いてくれる人が現れることを確信しているところは、克之にしかできないことだ。それも克之の頭脳が卓越している原因に違いない。
克之を巡る展開が、今までは砂津を中心に進んできたように思えたが、実はすべては克之がこの世界に先んじて来たこと。そして何よりも、自分の世界の行く末を、誰よりも先に予見することができたことで、考えられたシナリオだった。
ただ、シナリオはできがっても、悲しいかな、段階を持って達成されるべきことがいつになるのかまで、さすがに克之にも予見できなかった。元々いた世界が破壊と殺戮に明け暮れるようになっても、まだ克之には覚醒するだけの準備が整っていなかった。
そのため、砂津は一年という期間を切って、再度現れた。しつこくすることはこの場合ではタブーだったのだ。
封印した克之の考えが分からない限り、無理は禁物である。下手に無理してしまうと、うまく行くことを曲げてしまったり、覚醒するスピードを鈍らせる。そういえば、克之が見た追手の動きも、少し進んで後ずさりするようなぎこちないものだったではないか。
さらに、克之に対して、最後に背中を向けることも大切であった。じっと相手の顔ばかり見ているのではなく、途中で引くことも大切だ。そのことを砂津は分かっていて、わざとそのような演出で、記憶の奥に格納されている克之の覚醒を引き出そうとしたのだ。
克之は、次第に覚醒しようとしていた。
向こうの世界からやってきた身体は、密かに隠してある。その場所が、最初に克之が砂津を見かけた柳の木のそばであった。
ただ、克之には一つの心残りがあった。
他ならぬマリのことである。
マリはこの世界で幸せに暮らしている。そのマリを連れていくかどうか、克之には結論として出せるものではなかった。
だが、克之が覚醒することをマリにも分かっていたようだ。
マリの方は、この世界でのマリの方が、考え方はしっかりしていた。その理由は、向こうの世界からやってきたマリの心に克之がいることだった。好きな人が心の中にいれば、覚悟や決心を付けるために開き直ることができるが、その分、オンナとしての弱さを露呈してしまう。そのことを封印されたマリは分かっていなかった。
表に出ているマリの方は、自分の中にもう一人の自分がいること、そしてそれが異世界の女性であることは何となく分かっていた。それは誠がそばにいたから悟ることができたのだ。
――中にいるマリを、開放してはいけない――
というのが、この世界のマリの考え方だった。
「あなたは、ここで生きていくの」
こちらの世界のマリは自分の心にそう言い聞かせ、心の中から覚醒したもう一人の自分がいなくなった克之に近づくことを選んだのだ。
――これが私の決着――
マリは、もう心配ない。
覚醒した克之が、自分の世界に戻っていった時、向こうの世界の平和が取り戻せたのかどうかはっきりとは分からない、しかし、それから砂津も誠もこちらに来ることはなかった。克之も同じである。
克之の心の中を覗くことはできないが、彼の心の中にはいつもマリがいたことは間違いない。浄化という伝説があくまで都市伝説としてのデマであり、本当の意味での浄化とはどういうことか、それを元の世界に帰った克之は、自分の手で広げていっていることだろう。
しばらくして、異世界との扉が次第に閉じていくのをこちらの世界の克之は分かっていた。
空と海の境目が水平線として見え始めた時、克之は水平線に向かって、
「頑張るんだぞ」
と、声にならない声で、語り掛けているのを感じた。
そこに見える後ろ姿を自分以外に見えなかった克之だったが、その時、自分とは明らかに違う自分の背中を見たのを感じていたのだった……。
( 完 )
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